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努力ができる人間になりたいです。

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初めて質問させていただきます。文章を書くのが苦手なので、分かりにくい部分があったらすみません。

私は高校生の時から急に努力をすることができなくなりました。高校受験の時が一番勉強した時期でした。その結果、少し有名な高校に合格するこたができました。しかし、高校入学後は勉強や部活動に対してもやる気が起きず、怠けてばかりでした。そのことを怒られたことがありましたが、それでもやる気は起きませんでした。一度だけ部活動を頑張った時期がありましたが、才能のある子ばかりが注目され、私には誰も見向きもしませんでした。このことがきっかけで部活をちょくちょくサボるようになりました。今から思うと、その子達は私の知らないところですごく努力していたのかもしれません。
大学受験の時もあまり勉強せず、一浪したあげく、偏差値の低い私立大学に入学しました。

現在は大学4年生です。就職活動をしていましたが、これも熱心になることができず、20社くらいしかエントリーしませんでした。その中で1社内定を頂いたので、そこに就職しようかと考えています。自分のこれからの人生がかかっているのに何も実感が湧きません。私は逃げているだけなのでしょうね。他の人は一生懸命になっているのに。こんなことクズで情けないと思います。

ずっとこのままではいけないと考えるていました。でもどうしたら良いか分かりません。夢や目標があれば少しは変われるのではないかと思いますが、私にはそれがありません。何のために生きているのか分かりません。

書いていくうちにごちゃごちゃしてしまいました。
ご回答いただけたらとても嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間は好きなことしかやろうと思わない

だからこそ、好きな人のためや、自分の好きなことのため、したしめるもののために行動すればよいと思います。
自身はちゃんとわかって康応しているのです。
本当に好きなことはどんどんやれる。
自然に手が進む。
その力を活用してみてください。
そして、そこにこの世に生まれて誰かの何かのお役に立つという命の使い方をしてみて下さい。
人間は自分のためだけに行動すると、いつか苦しみを得ます。
周りの人たちや存在によって成り立っているこの命であるからこそ、他の命もよりよく昇華できるようにお互いにたかめあうのです。
自分の持っている力で他の多くの方々に花を持たせて、多くの人々を偉い存在に仕上げるのです。それが仏法であり、この世の中がより良くなっていく最高のあり方なのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

覚元様、ご回答ありがとうございます。好きなことに対しては他のことを忘れて熱中してしまうことがあります。本当に好きなものはまだ分かりませんが、これから見つけていきたいと思います。

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