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僧侶として道心が欠如しています

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当方浄土宗僧侶、現在30歳副住職です。
信仰相談というか、気持ちの整理をしたく思います。

諸大徳の皆様は、ご自身の信仰心についてどのようにお考えですか。

私自身はというと、僧侶という立場でありながら、仏も浄土も信じきれておりません。嫌いとかそういうわけではないのですが、見たことも感じたこともないものを信じることというのは、私個人にとっては難しいことです。

かつて同じように言っていた友人僧侶がいて、そのときは「不信心だな」と思ったのですが、いつからかその友人の言う通りだと思うようになりました。
それでも通夜葬儀や法事の際には、しっかりとお浄土などのことはお伝えをしているつもりですが、あとになって「詭弁なのでは」とか「確かめたわけでもないのに、どうして信じることができるのか、まして人に勧めることができるのか」と悩みます。

その都度悩んでは、その場凌ぎの答えにたどり着きます。それで納得することもあれば、言い聞かせているだけだなとか、言い訳じゃないのかと思うこともあります。
以下は、その場凌ぎの答えです。

一つ目はは、祖師たちへのリスペクト。
実際に仏や浄土があるかどうか分からなくても、それを信じて来た人たちの歴史を信じようと考える。

二つ目は、教えへのいわゆる愛着。
実在性はともかく、倶会一処といった世界観や思想は好きなので、その気持ちを大切にすること。

三つ目は、未熟さや葛藤を肯定的に捉えること。
とある学僧が夢の中に出てきた師匠から「お前は道心がない」と言われた話があります。同列に語るのは差し出がましいですが、その人でさえ同じように悩んでいたのだから、自分も未熟で当然と思う。

4つ目は、「まだ知らない」と思うこと。
たとえばお寿司を見たことも食べたこともない人に、味や食べ方を説明してもピンと来るはずがない。その人の世界にまだお寿司が「存在していない」から。それと同じことが自分に起こっていて、本当は実在するのに見たことがないから信じれていないだけ。

愚鈍念仏往生の機とか、一心に念仏をお称えしていれば自然と三心具足となる云々、ありがたいお言葉ですし理屈はわかるのですが、どうしても自分の中でこんがらがって芯に入ってこない感じがあります。

どうか懐疑心を抱えたままの僧侶としての在り方について、アドバイスや心構えがあればお教えいただけますと幸いです。

2026年2月14日 11:16
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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

信じきれない私のままで、立ち続けるということ

ご相談をお寄せくださり、ありがとうございます。
僧侶というお立場でありながら、「信じきれない」という思いを正直に見つめておられること、その率直さにまず頭が下がる思いがいたします。

お勤めやご法事ではきちんとお伝えしながら、あとで「これは詭弁ではないか」と自らを問い直す。その揺れの中で、祖師方への敬意、教えへの愛着、未熟さの自覚、「まだ知らない」という感覚――いくつもの足場を探しながら立っておられるのですね。簡単に割り切れない、その誠実さゆえの葛藤なのだろうと感じます。

私どもの教えでは、人はもともと「疑い、計らい、確かめずにはおれない」存在として見つめられてきました。まっすぐ信じきれる人だけが尊いのではなく、疑いを抱えずにいられない私こそが、そのまま抱かれている――そう聞かせていただいています。
信心を「自分の内側で完成させるもの」と考えると、どうしても足りなさが気になりますが、むしろ「そうなりきれない私が呼ばれている」と受けとめる道もあるのではないでしょうか。

懐疑心が消えることを目標にするよりも、「疑いながらも、なおお念仏申している自分」に目を向けてみる。そこにすでにはたらきが届いている、と味わう道もあるのかもしれませんね。
信じきれないまま称える声も、計らいの混じった語りも、そのまま聞き取られている――そう聞くとき、少し肩の力がゆるむことはないでしょうか。

副住職としてのお務めの重さもおありでしょうが、まずは一人の人間として揺れているご自身を、どうか責めすぎませんように。疑いを抱えたまま立っているその姿も、また法の中の歩みなのだと、私には思われます。

また折に触れて、どうぞお話しください。
お念仏とともに、その揺れの歩みが静かに支えられていきますように。

2026年2月14日 11:37
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有り難し
おきもち

個別相談可能
真宗山元派上西山正善寺住職

念仏という行

お釈迦様は、自らを島(州)とし、法を島としなさい、怠ることなく精進しなさいと言われました。
私達の心は油断すると煩悩の激流にザブンと流され溺れますが、島(州)につかまっているときは激流から助かっています。
私達が願往生心の白道に意識を置いているときは、貪りの河と怒りの河に流されていないのです。
唯識思想(大乗仏教心理学)のプロであった世親菩薩は、作願門(願往生心)を浄土教におけるシャマタに位置付けられ、
善導大師は念声是一の着眼点で口称念仏=作願門の白道を示されました。
法然上人は、念仏を心の主人、妄念を心の来客と喩えられ、妄念が過ぎ去ったらまた念仏すれば良いと言われました。
そして、一人一日のうちに八億四千の念ありと言われ、凡夫の心は猿が枝から枝へ飛び回るように妄念がわいてくると言われました。
江戸時代の徳本上人は、口先で南無阿弥陀仏と言えば良い、心(信心)なくして申せるものかと言われ、物理的に口に念仏が出ることが信心の証しだとあっけらかんと示されました。
しかし、その口先だけの南無阿弥陀仏は、島(州)でありしゃまた(サマタ)であり白道であり心の主人です。
つまり、悩み苦しみストレスの原因である煩悩は最終的にはビバシャナで悟らなければ滅びないのですが、とりあえずシャマタで煩悩や妄想雑念を一時停止させる(意識を激流ザブンから安全な白道)ことはできます。
日常生活の悩み苦しみストレスは妄想雑念で煩悩を刺激するから増大するわけですから、
口先で南無阿弥陀仏と唱えるだけのプチシャマタだけの生活でも、妄想雑念を一時停止して悩み苦しみを軽減できる効果が期待できます。
南無阿弥陀仏
追記
「もしも極楽浄土が本当にあるのなら往生したいなぁ、みんなもれなく阿弥陀様に救われたら良いのになぁ」という程度で充分では。
阿弥陀様は、疑いながらも念仏している人は極楽浄土にお誘い下さるでしょう。
「極楽なんか絶対嫌だ」と拒否する人を、阿弥陀様は強制連行までされないと思いますので、「極楽絶対嫌だ」派の場合は念仏しない方が良いですね。

2026年2月14日 15:18
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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

ご質問ありがとうございます。
同じ宗派であってもお坊さんそれぞれの経験と思想があり、あなたにはあなたの向き合い方があるのだと思います。
私個人の場合ですが、見たこともないのに信じることなんてできませんよ。
ただ、名前を呼ぶだけで救急車よりも早く死ぬ時に一瞬で迎えに来てくれる。そして浄土に連れて行ってくれる。それが本当ならありがたいねと思っている程度です。信じるというのは心の働きですが人の心は常に移り変わるもので不安定です。しかし名前を呼んだという事実は移り変わることのない不変の事実として安心を与えるのです。だから信じれば救われるとは説かずに、名前(念仏)を唱えれば救われると説いているのです。
浄土が本当にあるのかどうかは、あればいいなという感じです。もし死んであの世に行ってみたら浄土が無かったら、きっと法然上人やたくさんのお坊さんが浄土を作っているでしょうから私もお手伝いさせていただくつもりです。
そして死んだ後のことに念仏という保険をかけておけば安心して現世でいろんなことに挑戦して生きていける、悪いことをしなくても生きていける、そう思っています。そう思ったからこそ浄土宗の僧侶になったということでもあります。
あなたも浄土宗にこだわらなくてもいいのであなたなりの死生観、自分や他の方々がよりよく生きるためには何がいいのかを追求して欲しいと思います。
僧侶としての道心とは何かを盲目的に信じることではなく、自分と他の人がよりよく生きていく道を追求していくことだと思っています。

2026年2月16日 14:21
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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

これからの人生の中で

拝読させて頂きました。
あなたのその誠実な思いを読ませて頂きました。あなたが信じられないわからないと思うのももっともなことだと思います。あなたのそのお気持ち心よりお察しします。
正直なところわかる人はなかなかいないと思います。私も正直なところわからないと思うことの方が多いです。

そのような中で本当に自分は救われたいと思うか、救われる教えを欲しているのかどうか、あなたはいかがでしょうか?

私は最近もとても自分が救われない存在だと思うことがありました。年をとってもなかなか精進できない、なかなか信心を持てない愚かな自分がいることです。

そんな私でもやはり安心して救われたい、仏様を信じて救われたいと思います。
或いは大切な人や私がご供養させて頂く人たちが本当に救われてほしいと心から願ってお勤めさせて頂きます。

生きている中ではなかなか実感も湧かないですし、ピンとこないこともあるとは思います。
あなたがこれから様々な経験を積んでいく中であなたの救われたいと思う気持ちや信じたいと切に願う心が養われていくのではないでしょうか。

あなたがこれからも沢山の素晴らしい出会いやご縁に恵まれ、あなたが様々な経験を積まれ心から救われていきたいと思い、心から信じる仏様や教えにめぐり会うことができますように切にお祈りさせて頂きます。
そしてあなたが少しづつ信仰を持たれていきますように心から仏様や神様やご先祖様に祈っています。至心合掌 南無阿弥陀仏

2026年2月14日 14:41
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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

二種の深信

 学校でも習われたと思います。信機信法。
「初めに我が身の程を信じ」ということです。その深まりと共に、信法も深まります。
 私も浄土宗です。やはり「俺は本当に、阿弥陀様にぜんぶお任せしなきゃならないほどに、ダメなのか?」を、結構トコトン考えました。「皆んな凡夫だからね」と言われて、「あーそーだよねー」と、軽く受けなかった。こんだけ真面目に親のことも聞き、勉強もして、しっかり稼いでるのに。そいでも凡夫なのかと。
 結果…凡夫でした。そうしたら、信法のありがたさとか、何だか自然と感じたりして。
 信仰は、習うものではないと思います。自分の体で体験するもの。言葉はガイドとかヒントでしかない。
 あなたのこの問いは、「信機」に関わるものだと思います。自らの機を見ることなしに、法を信じることは、たぶんできません。
 私たちは法を伝えているけれど、信を獲得するのは、あなたが何をするかに掛かっています。

2026年2月15日 17:00
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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

質問者からのお礼

温かいお言葉でご回答いただきありがとうございます。
私自身の内面の話なので中々他に打ち明けられることもできずに悶々としておりました。確かに信心だけでなくとも自分だけで様々な物事を完結しようとするのは厳しいものがあるように感じました。

本当は信じたいんです。一点の迷いもなく、自分が死ぬときは「ようやく極楽行ける」と、そのくらいの確信が欲しいんです。でもそうじゃない自分も本当です。檀信徒へのお説教が嘘とは言いませんが、せめて自分の気持ちにくらい素直でいたいんです。自分がどう思っているのか、その答えがないまま空っぽのまま聞こえのいいことばかりを言っているだけじゃ、まごころで接してくれる檀信徒にも申し訳が立たない、そんな感じがします。

仰る通り「疑いながらも」というのが自分のスタイルなのかもしれません。法然上人も疑いながらの念仏でも良いとの仰せでした。たぶん一生疑い続けて色んな壁にぶつかるかと思います。でもそれは自分が仏教という世界の中で確かに生きているからかもしれません。

目にも見えないし、あるかもわからないけど、仏さまの教えが前提にあってこそ、いまの私は確かに足掻いているのだ、そう思います。

合掌

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