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私のせいで、心を閉ざした彼の傷を癒したい。

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既婚者で別の女性と半同棲の状態の人と恋愛関係になり、私は彼の状況が許せない悲しみから、彼がすぐに状況を変えることができないが、彼の私にたいする気持ちはピュアだと知りながらも、わざとお互い傷つくよう事ばかり言い勢いで別れに至りました。

 しかし状況はどうあれ、彼の真心を、それと知りながらも自分の悲しみの方を優先させて彼なりの真心を傷つけた罪深さと後悔で一杯で今は夜も寝られない日々です。

 彼は、ピュアで完全に私に心を開いていた状態に、私から言葉の刃物を向けられたので、私が勢いで放った言葉が原因で別れに至ったことに、後悔を示しても、「終わったことに対して何をいわれても」と、2度と心を開いてくれません。
 
 現実的な状況ではなく、心の話であれば、彼は真心の状態であり、私はそんな彼に対して甘えと嘘を向けた。どちらがより罪深いかといえば私の方だと感じます。ですから、彼が受けた心の傷を癒し、自分の罪深さを償いたいのですが、心を閉ざした彼にどう接すればいいのか。自分は来世までこの苦しみを持っていかないといけないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あらら、何て大げさな

そんなことはありません。
男女のいう事、やる事、男と女だからこそお互い行き違いがあるのです。
単純に悪いことしたら、ゴメンナサイでいいんじゃないでしょうか?
素直さが無いだけです。
それがお互いに無いのは、自分が強すぎるだけの事。
お互いぶーたくれたり、ひねくれたり、相手の反応を見ようと思って、試すような事をするのはプチ・モラルハラスメントの始まりです。
なにも愛は生まれません。
あなたも自分を責めすぎては愛が生まれません。
やさしさを行為することに勤めて、自責を行為することに一生懸命にならないようにつとめてください。
あなたは彼を傷つけたのではなく、言いたいことを頂けでしょう。
それは、あなたが悲しいから悔しいから、もっと愛されたいから。
そっちの方に目を向けるべきです。
それを伝えることです。
そして、それとは別に、言い過ぎた事、きつくいってしまったこと、つい感情的になってしまう愚かな自分であったと、詫びるべきです。
冷静に順序立てたコミュニケーションが取れれば、ちゃんと問題は解決します。
感情が入り込みている気がします。
感情無しに、冷静に理性だけで考えてみましょう。
やることが明確になるはずです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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