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職場の年下の上司に想いを抱き、伝えたところ「気持ちは嬉しいけど、仕事場の人間とは付き合わない、今は仕事を頑張ってほしい」と言われました。
 現在、仕事は続けていますが、2人で飲みに行こうと言われたり、からかってきたりと、私の気持ちを分かってて、そう言う行動に出ることに訳が分かりません。
 仕事を変えたいのですが、試験が終わるまでは中途半端な状況で難しいです。
 きっぱりと、諦めるために職場を変えるべきでしょうか?自分の夢の為に仕事を続けるべきでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

相手の方は既に切り替えてます

あなたのお気持ちを聞いて断ったことで、すでに切り替えていると思われます。特別な感情がないからこそ、自然に接しているのでしょう。

あなたも、切り替え、すぎたこととして、捉えたらどうでしょう。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

相手の誠実さで見極める

あなたの好意を伝えてあるわけですから、その問いに対する誠実な答えでなかったならば、遊ばれてしまいます。( ˘ω˘ )
そういう誠実さを見極めることも男性を見極める、選ぶ目を養うという事です。
仕事は仕事、人情は人情。
公私混同せず、距離を持つことです。
距離を持つとはあなたの中で取り込まないという事です。
拾い上げない、問題にしない、ひきよせない。
そこで終わらせてしまうという事です。
(^。^)その人が本当にその気があれば、その人からあなたに誠実さを以って接してくるでしょう。
私的な感情で仕事を捨ててしまわないことです。
アトアト引きずりますから最後の印象を脳内で良いものに変えていくことです。
今の時点では、印象があなたの中では何かが失われた印象が強いと思います。
その印象を変えていくためには、あなたの中でもそういう誘いやからかいも私的に「悪く」捉えないことです。悪くとらえると、心の中で印象が変わります。
出逢った当初ファーストインプレッションは、好意を持っていたはずです。
好意を伝えたセカンドインプレッションあたりでも良い印象を持っていたはずです。
NOと言われて以来、ちょっかいを出されたりのサードインプレッションあたりで印象が悪くなっていったはずです。
これからも印象やイメージは変わっていきます。
最後のインプレッションをあなたの中で変えていく工夫をするのです。
相手に対する印象や思いは自分の中だけのものですから、実際に動き回って存在しているその人とは別のものです。
それは必ず変わっていくものなのです。
そういうものに縛られずにあなたはあなたを生きることが大切ですよ。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
彼の返事がどういう意味かは分かりませんが、私に対して誠実に向き合ってくれていることは分かります。
今は、自分の向き合うべきものに真剣に取り組みます。

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