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先ほどの者です

回答数回答 2
有り難し有り難し 12

また改めて質問させていただきます。私は小さい時から難病で、19の時に車椅子になりました。でも3年前に主人と結婚できました。
周りは普通の人生なのに、私は辛いことが多いんです。車椅子になることってそんなにないことですよね。その上難病で子供は産めません。20年以上疎遠だったいとこが子供が生まれたからといって見せに来てはお祝いわせびることにも悔しくて。
こんな私には、一体いる意味なんてあるんでしょうか。
こんなに苦労しても、まだダメなんて、よっぽど前世で悪いことしたんですかね(T_T)

本当に人生は不公平だと思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今も入力しづらいのですが

三年も闘病生活を送り二十八歳で亡くなった有為の青年のお通夜にお参りしたことがあります。友達が想像を絶するくらい多く、会社の皆さんにもたいへん愛されていたので、通夜も葬儀も満員でした。こんなにも多くの方々に信頼され、愛されていた彼がどうして苦しんだ末、若くして命を終えたのか、その理由を考えてみましたが答えはもちろんありませんでした。

いえることは、人生は平等ではない、ということでした。しかし、不条理ななかで自分が如何に生きるか、それが私たちが生まれてきたときに背負った課題なのかもしれません。

相変わらず入力しづらく、文章が書きにくいので、向坊弘道さんという四肢麻痺でありながら、スケールの大きな仏教伝道活動をなさった方のご法話のyoutube版をご紹介します。私は何か問題にぶつかったとき、いつもこのご法話を拝聴しています。ご法話は三部構成になっています。

1.
https://www.youtube.com/watch?v=tT4tfgu-D5M

2.
https://www.youtube.com/watch?v=wsxwnXGYhSk

3.
https://www.youtube.com/watch?v=SH_skqdY3us

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おきもち

個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

何もそこに思いをつけ足さない

別にいとこだって金をせびりに来たと思わなければいいのです。
身内だったら、疲労に来るのは当然の事。
あなたが卑屈に感じないことです。(^<^)
奪われる、減っていく、取られていく、その心情があなたは一番恐ろしいのだと思います。
これに対して効果的なのは、今持っているものを強く認識しないことです。
仮に今の自分がどういう状況であっても、そこからプラスマイナスが強く怒らない様に、どんぶりにしておくのが良いのです。
今までだって、何かが減ってきたでしょう。何かが増えた、獲得されたはずでしょう。何かに出会えたはずでしょう。何かを授かってきたでしょう。
あなたの中での物事の捉え方を、損得勘定から、授かった目線にすると良いでしょう。
学校でも、減点方式から、獲得法式を勧める所があります。
アレがダメだった、これもダメだったではなく、
アレができた、これができた、これも解けたとすることで、積み重ね、チカラになります。
その嫌いな?いとこも、それを通して、学ぶものがあった、一応体裁は整った、やるべきことはクリアできた、精神が向上した、軌道修正ができたと観ることがあってもいいはずです。
あなたの中で、あなたが減らさない事、漏えいを無くすのです。
漏えいをなくす為には、そこに自分の❝減らされた❞意識を添えないことです。
考えの上では、片面ばかり見ずに、獲得面を観ることが良いでしょう。
事実の上では、ただ、いとこが子供が生まれて嬉しかったらしく、ご挨拶として全部の親戚を廻っているだけ。あなたのところにだけ嫌がらせできたわけでもないでしょう。
そういう目線を無くす。そうすることで、あなたの周りの人をもっと幸せにすることができます。ゴメンナサイより感謝の心。減らされたより、してあげた、得られるところがあった、という目線が大切です。もっと大切なのは、その通りのまま頂くことです。
人生には授かりしかありません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

藤岡さん、ありがとうございます。
YouTube見てみますね。

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