hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

哀しみから抜け出すには、どうすればいいでしょうか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 14

数日前、最愛のペットが亡くなりました。
子供のように可愛がってきました。

完璧とは言えませんが、その時々で精いっぱい一緒に過ごしてきたので、
「ああしとけば良かった」と思うことはありませんし、応える様に、よく懐き、
とても気が利く子でした。

今は、ただ、いつものように
「おはよう」と話しかければ飛び出して来たり、
「ただいま」と自宅に帰れば、お決まりのポーズで待っててくれたり
するんじゃないか?とか、
物音がすると呼んでいると思って向うも、誰も居ない状態に、
愕然として涙か止まらなくなります。

火葬は済ませましたが、合同供養として土に返すことに躊躇い、
遺骨を自宅に持ち帰りました。

周りからは、いつまでも手元に遺骨があると成仏できないと
急かされる様に、言われます。

自宅で、不意に思い出が甦ると、思わず居ない寂しさから、
泣いてしまう事が多々あります。

大人がそんなことくらいで泣くな!煩い!と父に激怒されてしまうことから、
思い出しそうになったら自室へ行き、ひっそりと声を殺して泣いています。

また、いつ発作的に哀しみが押し寄せてきたら困るので、夜泣きの薬を飲んでいます。
正直、根本が解決されていない為、哀しくならないわけではないですが。

いつまでも哀しんでいると、
成仏出来ずに足をひっぱって彷徨うことにならないだろうか?と考えてしまいます。

過ごした日々の全てを忘れたいと思っているわけではありません。

この、哀しみから抜け出すには、どうすればよいでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

頂いたやさしさは死なない

さぞかし、かなしいお気持ちであられると思います。
人によっては肉親がなくなったより悲しい人もおられます。
その理由として、動物の愛は無償そのものです。
人間のようにケンカしたり、嫌い合ったり、反発がありません。
だからこそ、純粋に愛情を注げるものです。
その反面、愛情を注ぎ過ぎて、その愛に依存的になってしまう部分も否めません。
人間はより良く関われるものに、気持ちを注ぎ過ぎてしまう面があるからです。
哀しみに反発をしないでみましょう。
寂しい、哀しい気持ちに反発をせず、消そうとせずに過ごしてください。
そうすることで、自分に向き合えます。ちゃんと死に向き合えます。
ご恩返しとして、やさしく関わってくれたことを他の方に表してみてください。
あなたの中にそのやさしさがすでにそなわっていることに気づくはずです。
亡くならない、無くならないことって、ちゃんとあるのです。
それを感じてみるために、人と関わってみてください。やさしさを表してみてください。あなたの中の、頂いたやさしさを生かしてみてください。
死んでいないという事が分かれば哀しみは無くなります。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お言葉ありがとうございます。

哀しまないようにという事に囚われていたので、死に向き合うという事から逃れていた気がしました。
また、誰かに優しさを表す。そんな恩返しの仕方があるのかと感じました。

直接会話するわけではないので、誰も返答がなかったらと不安もありましたが、ここに相談して良かったです。

本当にありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ