hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人の顔色を伺うのをやめたい

回答数回答 3
有り難し有り難し 52

いつも人の顔色を伺ってしまう癖があります。

なにが原因なのでしょう?どうすればこれをなくすことができますか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

癖は、繰り返しから

 こんにちは。想像の多い話になってしまって申し訳ないのですが、その辺りを踏まえてお読みください。
 まずは、「くせ」そのものについて気づかれたこと、良かったですね。自身の癖というのは、なかなか気づかないもの。自分が自動的に・自然と行っていることですから、なかなか認識されづらいのです。「ふと気づいたら、顔色を伺ってばかりだ」という形で気づかれたのでしょう。あるいは、誰かが指摘してくれたとか。他人と自分のズレから、自分の特徴は見えてくるものです。
 人間はもともと社会性を高めるために、お互いの意思疎通を大切にする動物です。「白目があるのは、視線がどちらを向いているか相手に伝えるため」と考えられている程です。「目は口ほどに物を言い」ですね。
 原因としては、かなり本能的なものです。「他人とうまくやる」ことで繁栄してきたのが人間ですから、「人の顔色を気にする」こと自体は人間にとって役に立つことです。
 ですので、「それをやめたい」は、結構たいへんだと思います。ですから、問を少し変えて「人の顔色で勝手な判断をして、自分を押し殺してしまう」であれば、話は分かります。ポイントは2つ。「勝手な判断」と「押し殺す」です。
 判断については…嫌そうな顔をしているなと思ったら、すこし推論してみましょう。相手が考えている問題があるとすれば、逆にそれを回避すれば「分かってくれるじゃないか」になります。
 押し殺すについては、丹下師の仰る「これって、俺の勝手なカッコつけじゃないのか?」と自問自答。そして、「言わなくてもいいや」なのか「言わねば!」なのか。「言わねば」であるならば一息ついてから思い切って言いましょう。「ちょっと俺の気持ちを聞いて欲しいんだけど、うまく言えるか分からないから、そうだったら言ってね。」この前置きで、相手に構えを作ってもらいます。そして言う。
 顔色を伺うこと自体は本能ですが、それによる自制は癖です。癖は繰り返し(練習)で外すことができます。練習ですから困難が伴います。楽じゃありません。「自制」だけでない選択肢を手に入れたら、練習おしまいです。
 私達浄土宗の坊さんが、何回も何回もお念仏称えるのは、「イザ」という時のための練習です。「あ、俺もうダメ」と思った瞬間に、「南無阿弥陀仏」と言うための。それほど癖は大切です。どうぞご精進下さい。

{{count}}
有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

格好良く見せたい

おおよそ男の子は、カッコいいものに惹かれるものです。
日曜日の朝の子供向け番組も、だいたいがヒーローものです。
それはとても大切な事なのでしょう。
評価もその一部なのでしょう。
それを下げない様にあなたは必死なのではないでしょうか。
もしくは嘘があるのでしょう。
自分の等身大の自分を見せられない。
より大きく見せようとしている。
そういうはからいをやめてみることです。
素の自分で居られる人は強いです。
「相手がこう思うのではないか」というのは自分の思いです。
悪く思われたくないのは自分のルールです。
そういうのを打ち捨てて、相手からどう思われようとも、そのままいられるようになってみてください。相手がこう思うだろうという思いは自分の思いなのです。
その思いでやられていることを気づけば、相手は他人の眼ではないことがわかるでしょう。
分らなければ坐禅会まで。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
💕禅ママ説法💗 禅ママの超簡単!不安消しテクニック! (*´ 艸`) 人生って、ちょっぴり不安がいっぱいよね? でも大丈夫! 「現実」と「頭の中だけ」をちゃんと見分けられるようになれば、不安なんてちっぽけなものよ! だって、みんな「もしも~」「もしかして~」って、頭の中で勝手にドラマ作っちゃってるだけなんだもん。 (˘ω˘) 「あれが起きたらどうしよう」とか「こんなことになったらどうしよう」って、まだ何も起きてないのに、勝手に心配しちゃうのよね。 だから、今この瞬間、目の前にあるものに意識を集中してみよう! ✨ 見えるもの、聞こえるもの、感じてること… そうすれば、どんなに不安なことがあっても、"今ここ" に戻ってこれるわよ! 心配事って、まるで映画の予告編みたいなのよ。 まだ何も始まってないのに、ドキドキハラハラしちゃうでしょ? でも、実際は、今この瞬間、目の前で起きていることだけをちゃんと見ればいいのよ。 そうすれば、心はもっと穏やかになるわよ。 不安を感じたら、ちょっと立ち止まって考えてみてね。 「この不安、本当に今の私に必要?」 「今、目の前で起きていることは、一体何?」 そうやって、現実と想像の違いに気づけば、不安に振り回されることも減っていくわよ。 だから、今日一日も、"今" をしっかり感じて、笑顔で過ごしてね! (*´ 艸`) じゃ、行ってらっしゃい!

自灯明ー自己を灯明とし、自己をたよりとせよ

「自灯明・法灯明」がお釈迦様の遺言として伝えられています。「自己を灯明とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。」ということです。
人の顔色を伺うこと、つまり他人の評価は、決して無駄ではありません。自分は気がつかないが、他人の目によって気づかされることはたくさんあります。しかし、一方、他人の評価だけに生きるところに自立した自己は存在しません。他人の評価はあくまでも他人の立場に立った価値判断です。例えば、上司は上司の立場で物事を判断します。親は親としての立場で物事を見ます。そしてあなたは今自分がおかれている立場で考えるのです。
以上のように、他人の評価は絶対的なものではなく、相対的なものなのです。そのことがわかれば、仮に人の顔色を伺っても、自分の立場に立って物事を見ることができるようになっていくのではないでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
これから練習して人の顔色を伺わないようにしてみます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ