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人の顔色を伺うのをやめたい

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いつも人の顔色を伺ってしまう癖があります。

なにが原因なのでしょう?どうすればこれをなくすことができますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

癖は、繰り返しから

 こんにちは。想像の多い話になってしまって申し訳ないのですが、その辺りを踏まえてお読みください。
 まずは、「くせ」そのものについて気づかれたこと、良かったですね。自身の癖というのは、なかなか気づかないもの。自分が自動的に・自然と行っていることですから、なかなか認識されづらいのです。「ふと気づいたら、顔色を伺ってばかりだ」という形で気づかれたのでしょう。あるいは、誰かが指摘してくれたとか。他人と自分のズレから、自分の特徴は見えてくるものです。
 人間はもともと社会性を高めるために、お互いの意思疎通を大切にする動物です。「白目があるのは、視線がどちらを向いているか相手に伝えるため」と考えられている程です。「目は口ほどに物を言い」ですね。
 原因としては、かなり本能的なものです。「他人とうまくやる」ことで繁栄してきたのが人間ですから、「人の顔色を気にする」こと自体は人間にとって役に立つことです。
 ですので、「それをやめたい」は、結構たいへんだと思います。ですから、問を少し変えて「人の顔色で勝手な判断をして、自分を押し殺してしまう」であれば、話は分かります。ポイントは2つ。「勝手な判断」と「押し殺す」です。
 判断については…嫌そうな顔をしているなと思ったら、すこし推論してみましょう。相手が考えている問題があるとすれば、逆にそれを回避すれば「分かってくれるじゃないか」になります。
 押し殺すについては、丹下師の仰る「これって、俺の勝手なカッコつけじゃないのか?」と自問自答。そして、「言わなくてもいいや」なのか「言わねば!」なのか。「言わねば」であるならば一息ついてから思い切って言いましょう。「ちょっと俺の気持ちを聞いて欲しいんだけど、うまく言えるか分からないから、そうだったら言ってね。」この前置きで、相手に構えを作ってもらいます。そして言う。
 顔色を伺うこと自体は本能ですが、それによる自制は癖です。癖は繰り返し(練習)で外すことができます。練習ですから困難が伴います。楽じゃありません。「自制」だけでない選択肢を手に入れたら、練習おしまいです。
 私達浄土宗の坊さんが、何回も何回もお念仏称えるのは、「イザ」という時のための練習です。「あ、俺もうダメ」と思った瞬間に、「南無阿弥陀仏」と言うための。それほど癖は大切です。どうぞご精進下さい。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

格好良く見せたい

おおよそ男の子は、カッコいいものに惹かれるものです。
日曜日の朝の子供向け番組も、だいたいがヒーローものです。
それはとても大切な事なのでしょう。
評価もその一部なのでしょう。
それを下げない様にあなたは必死なのではないでしょうか。
もしくは嘘があるのでしょう。
自分の等身大の自分を見せられない。
より大きく見せようとしている。
そういうはからいをやめてみることです。
素の自分で居られる人は強いです。
「相手がこう思うのではないか」というのは自分の思いです。
悪く思われたくないのは自分のルールです。
そういうのを打ち捨てて、相手からどう思われようとも、そのままいられるようになってみてください。相手がこう思うだろうという思いは自分の思いなのです。
その思いでやられていることを気づけば、相手は他人の眼ではないことがわかるでしょう。
分らなければ坐禅会まで。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自灯明ー自己を灯明とし、自己をたよりとせよ

「自灯明・法灯明」がお釈迦様の遺言として伝えられています。「自己を灯明とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。」ということです。
人の顔色を伺うこと、つまり他人の評価は、決して無駄ではありません。自分は気がつかないが、他人の目によって気づかされることはたくさんあります。しかし、一方、他人の評価だけに生きるところに自立した自己は存在しません。他人の評価はあくまでも他人の立場に立った価値判断です。例えば、上司は上司の立場で物事を判断します。親は親としての立場で物事を見ます。そしてあなたは今自分がおかれている立場で考えるのです。
以上のように、他人の評価は絶対的なものではなく、相対的なものなのです。そのことがわかれば、仮に人の顔色を伺っても、自分の立場に立って物事を見ることができるようになっていくのではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
これから練習して人の顔色を伺わないようにしてみます。

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