幸せな現実と精神状態のバランスの悪さ
夫婦でのんびり暮らしています。
夫も優しく、夫の実家との関係も良好。
仕事も順調で、幸せそのものです。
ですがその平和・幸せが、嘘や作り物のような感覚になることがあります。
原因は一応自覚していて、私の実家は暴言・暴力が激しい家だったので、ギャップが激しすぎるんだろうなと。
暴言暴力が当たり前だった家がどうしても苦しく、成人後に断絶を選びました。そのことに後悔はありません。
現在は平和で、暴言どころか嫌味すらないのが当たり前。そのことに、時々びっくりします。
穏やかな日常を望んだからこそ実家から離れたはずなのに、平和で幸せであるということを、急に強く実感することがあり、なぜかギョッとします。
「ああ幸せだなぁ…」としみじみできるはずのところで、そわそわして不安になります。
また、時々なんの理由もないのに死にたくなります。
前述の、「いまの幸せを作り物のように感じる瞬間」に死にたくなる……ならば、分かりやすくて良いのですが
そういうことでもなく、不規則なタイミングで死にたくなります。
変な言い方ですが、家に帰れば夫に会える。または家にいれば夫が帰ってくる。
嬉しいですし幸せです。
つまり互いに必要とし、必要とされている。ここはちゃんと実感があります。
なのにいまだに「自分は死ななくてはならない存在である」という波?のようなものがやってきます。
その時は、自分が生きていることが許せないような、消えなくてはいけないような気持ちになります。正直申しまして辛いです。
映画や物語的に、幸せや満たされた気持ちによって死にたい感覚は消えるというようなイメージがあったのですが
実際そんなことはなく、共存できてしまうのだと分かりました。
こういうのは時間薬だという人もいます。
時間薬だとして、それはどれくらい先のことになるんだろう。
時間薬が私にも効くと、信じて良いのでしょうか。
それともやはり、一生付き合わざるを得ない感覚なのでしょうか。
誰にもうまく言えません。そんなに幸せなのに贅沢だ!と言われてしまうのが怖いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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安心の環境の中で生活できてよかったですね
過去の経験から、今目の前にある幸せに満足できなくなっているのでしょう。過去の刺激的な生活は長年続いたのですよね。体は変な話刺激慣れをしていて、何か刺激がないと安心できないような癖がついているのでしょう。
幸せとは当たり前に過ごすことの中にあるのです。ものが見えたり聞こえたり、味わえたり。刺激的でもあるし何か先に想定していると物足りなさを感じるのかもしれません。
幸せとはこれからなるものではないのです。理想通りになることでもない。ただ今の様子の中に当たり前にあることに気づくこと。そこに安心があるのです。
考え方や思いではなく、事実に安心があるのです。あなたの体の機能を使いリアルと一体となり生きている現実は幸せそのものです。
質問者からのお礼
回答いただきありがとうございます。
暴力や暴言が当たり前の日々とは、とても刺激や安心といった言葉に当てはまるようなものではありません。
慣れることができるようなものでもありません。
いつどのように受けるものであっても苦しいものです。
例えば街中でどこかの誰かの(私に向けたものではない)怒鳴り声がたまたま聞こえただけであっても身が竦みますし、とても聞いていられません。
なのでお坊様が、安心や刺激といった言葉にあてはめようとすることに驚いてしまいました。
理想ですか…強いていうなら心身の危機を感じずにいられることが理想で、それは叶っています。
夫婦喧嘩をすることはあっても、殴る蹴るもないし人格否定も暴言も存在しない。
こんなに素晴らしいことがあるでしょうか。
やはり「今の幸せに気づきなさい」が答えとなってしまうのですね。
そうです、幸せがたくさんあります。「なる」ものではないと私自身も思っています。
特定のなにかが『ある』から幸せ、というものではなく、暴力も暴言も怒鳴り声も『ない』こと。
この現在が幸せそのものです。
(幸せ、という言葉を便宜上使ってしまったので伝わりづらかったかもしれません)
なのに死にたくなる。
必要とされているのに、私のようなものが生きていて良いと思えない。
ずっと一緒に生きていきたい大切な人がいるのに、死ななくてはならないという感覚に負けそうになる時がある。
この矛盾が苦しいと、助けを求めたつもりでした。
せっかくお答えを頂いたのに、素直に受け取れないことを申し訳なく思います。