きもちのおちつけかた
母がなくなりました。一か月過ぎましたが、寂しくて
涙がでます。元気に暮らしていきたいのですが
なかなか立ち直れません。法話を聞きに行きたいです。
座禅をして心が落ち着くでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
愛別離苦
愛する人との別れは避けられないものではあります。
恩愛深いご母堂様を亡くされてさぞお悲しみのことと思います。
私がお話しできることとしては、一つは「終わりを持たない」事ではないかと思います。
今日もお彼岸で多くの人がお寺にお墓参りに向かって亡き方と心を通わしあっています。
「続いている」のです。
亡き人と、生きている私たちとの形の変わった新しい関係性。
終わりのない関係性が見いだされることで苦しみは減っていくことでしょう。
愛別離苦とは、自分の中の「なにか」が失われた感「喪失感」に縛られて身動きが取れなくなることでもあります。
お母さんとあなたの人生の物語は無限にあったはずですが、失われた、「わたしがうしなった」というところにだけ焦点が当たってしまって、そこだけをつかんで、握って、鍋の中で焦げ付かせてしまっているような心理なのです。
お母さんが教えてくれた料理などを作ってみてください。そっくりになるように。そしてお供えしてみてください。
あなたの中に記憶として、DNAとして、血脈として、自分の中に何も失われていないことが自覚されるはずです。
別離、分離ではなく、今もうすでに自分の中に「お母さんが混在」していることを感じてみましょう。
私どもは思い浮かんできたことをあたかも真実であるかのように錯覚して、現実離れが生じます。本当は、何かが終わったわけではなく、今日もこの世の営みはずっと続いて今日も今もあらたに存続しています。
自分の心の川の流れの上流から流れてきたものだけを相手にして、今の「真」を見失ってしまわぬよう、今日もお母さんのお声掛けに耳を傾けて報恩感謝の一日をお過ごしいただき、仏行、菩薩の行を修して「わたくし」という自分を過剰に認める心を離れることが大切です。
「私にとって私にとって」「わたしのわたしの」「わたしがわたしが」という心こそ、常に変化しているもののありようを留めてしまう働きであるからです。
坐禅、禅定とは「私がこう思っている」という思いによる世界の流れを停止させるカギを開錠することです。
考え、思考、思いこそ、目前の現実を現実ならざるものに変える働きだからです。
質問者からのお礼
早速にありがとうございます。残っている使いかけのものや洋服など見るとたまらなくなります。
通夜式・葬儀と過ぎても亡くなったんだという気がしないときがあります。
こちらとあちらと生活していく場所がもう違うんだなとおもってもなかなか 気持ちがわさわさして
悲しいです。 でも、元気になっていけると思います。ありがとうございました。