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苦しい事

回答数回答 1
有り難し有り難し 9

接客をしていて、匿名で自分にクレームが来ました。

確かに100%私が悪いです。

私の悪いクセが今回のクレームを引き寄せました。

自分が悪いとわかりつつも、心がモヤモヤするし、不安が募ります。

正直怖いです。苦しいことから逃げたいです。

ネットで調べて不安を解消しようと思いました。

そしたら、仏陀がある少女に言った例え話で「毎日車を引いていた牛が、苦しみから解放されるために車を壊したら、鉄の車を付けられ、倍の苦しみがきた」とありました。

こんなことで挫けるなんて心が弱すぎるのかもしれません。

ですが、もうどうすればいいのかわかりません。

苦しいです…


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仕事は「私事」ではなく「お仕事」ですから。(._.)

お仕事でないときは、喜怒哀楽が顔に出たってよいでしょうが、お仕事はそれなりの報酬をいただいて、そのお店の顔として働いている以上は「わたくし」を滅してご奉公するのが良いでしょう。
笑顔を仕事とする仕事もあります。
勿論、度を越してはいけませんが、自分の許容範囲でできる限りのサービス、おもてなしを心がけるようにしましょう。

ある仕事をしていて、そこでトラブルがあってやめた人が、次の職場でも嫌な人がいて退職し、その次の職場でも嫌な人がいて退職したそうです。
今後も人生は続いていくものです。
仏教は、変わりゆく相手や出来事に対して、反応するこの自分自身の心のあり方を「わたくし事」無しになっていくことです。
私(わたくし)という姿勢は、自分のルール優先主義なので、どうしても自分の好き嫌いが露骨に出ます。
携帯でもマナーモード、通常モードの使い分けがありますように、この自身も設定を24時間自分全開ちゃんですと何かと衝突や面白くないことがつきものです。
坐禅や瞑想は、そのワタクシモードをOFFにする心のありようです。
どんなことを認知、知覚しても、もともとが自分流の思い方が起こっていないままに処することで、何も座ることではありません。24時間の無私、無我、無作(能動的意識のないこと)があなたの人生をより快適にさせます。
機会があればお近くの坐禅会に参加され、自分の心の中の能動的な意識をパソコンのカーソルを触らぬようなあり方として、四六時中のスクリーンセーバー状態を体得されることをお勧めします。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

私はやってしまいました。

「私」を出してしまいました。
上司には「お前が一生懸命やってくれてることはわかるけど、今回のはちょっと…」と言われました。

どうしたらいいのでしょう?
どこかでつまずくはずのものが、今来ました。

人はこれを越えてこそ成長なさるのでしょうが、私にはムリそうです。

越えられない壁は無いだの、越えられない試練は与えられないだの言いますが、越えられない壁も試練もあるみたいです。
そして今回のが私にとって越えられない壁であり試練です。

今一番いけない選択肢だとは分かっていますが、逃げたいです。
会社を辞めて全ての人に会わない生活を送って、今から逃げたいです。

辛い。逃げたい。

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