hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

神経質な自分を変えたい

回答数回答 1
有り難し有り難し 19

お世話になります。
今回は私自身の心の持ち方についてアドバイスを頂けると嬉しいです。

私は40代主婦です。
性格がせっかちですぐに白黒はっきりさせたい性格と、年々神経質になってる自分に悩んでいます。

私は、学校の近隣の戸建に住んでいます。
最近、学校の騒音…子供達の登下校の声は気になりませんが、夜の21時までほぼ毎日行われるサッカーのボールの蹴る音の騒音に悩まされています。
我が家には子供はおらず、主人の帰りも遅いので私が仕事から帰ってきてから、サッカーが始まる僅かな時間は静かな時間が流れます。
しかし、サッカーが始まると、テレビを付けていても、サッカーの蹴る音がとても気になるようになりました。

子供の習い事なので、サッカー自体を止めろとは言いません。
ただ、私自身がだんだん音に敏感になり、ストレスが溜まってきています。

また自宅前の駐車場にそのサッカーの保護者達が停める車が時々あり、その度に注意はしているのですが、注意した後に罪悪感が残ります。
すぐに車を出す予定もないのですが、車が停まってないか窓からチェックしてしまう自分がいます。

見なきゃいいものを、確認せずにはいられなくなっています。

普通はこうするべき、という思いが歳を重ねる度に強くなり、自分の事はさておき、他人のマナーの悪さや常識外な事に対して、とても厳しく見るようになり、どうにもらならない思いで、自分が苦しいのです。

もっと、力を抜いて、無神経なくらい気持ちにゆとりが欲しいです。
音にもマナーにも神経質な自分が生きづらいです。

心の持ち方やおまじないのように、自分の心に余裕を持てるようなお言葉があれば、頂きたいです。

宜しくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

現場で数回見てくると治ります

外の音が気になる方は、その実際の姿がよーくわからないために、自分の脳がその光景を勝手に誇大妄想して、どこまでも、それがハッキリしないことで、より焦点が深く当たることで悩むものです。
以前、お寺に楽器の音が気になる、隣の家の扉を閉める音が気になる、話し声が気になる、という方がおられました。
音が騒がしく聞こえちゃう人間の妄想って、一言でいうと「本人がいないところでこそ妄想するゆえに、その姿が脳がより一層気になって、妄想の方がより鮮明に感じられてしまうようになっちゃう症候群」なのです。
その妄想が過剰になると、妄想の方が現実よりも真実情報化されて、ある方は、私自身に対してまで妄想が膨らみ、私が悪者にネットで悪く書き込みされてしまうようなケースもありました。
実際の実物を現場で本当に見てみるとよいと思います。
ああ、こういうことをやっているんだなぁ、と脳ミソに勉強させに行くのです。
自分の子供が一生懸命、夢中になっていることだ、とか、この子たちの親御さんが試合でいい結果を期待しているに違いないと「善意」で観察してみましょう。
どこで、どうすると、どういう音がしているのかをよーく観察してみてください。
すると、頭の中で「未確認」な姿が鮮明になります。
反対に、外で物音がすると、その物音がなんだろうと思い始めると、ものすごく妄想が膨らんで、悪いことや最悪の事態を想定してしまうことがあるでしょう。
これは、本当に実際、実物を見に行ってからお礼コメントを頂けると幸いです。
彼らの練習風景が、どういうもので、どういうことを具体的にやっているかということを、黙って、じーっと見ていてください。
すると、だんだん、脳の方が、その音の正体がはっきり情報処理するので、気になることが無くなり「当たり前化」します。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
回答ありがとうございます。
アドバイス通り、音の元を自分で把握し、しっかりと見るようにしました。

正直、すぐには解決できませんが、少しずつ意識していけば、変われそうな気がします。
頭ごなしに騒音と思ってしまうと、ただの騒音ですが、目標に向かって頑張っている子供達の陽の音、陽の声、だと意識を変えて「当たり前化」になるよう、こちらも努力しようと思います。
騒音や些細なことも、想像だけで判断する事なく、自分の目でしっかり見極めてどんなことにも立ち向かえる強い精神力を養っていきたいです。

新しい考え方、アドバイスを頂き、気持ち新たに頑張ります。
ありがとうございました(^ ^)

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ