どうしても「許す」ということができません。
先日母との関係について相談させて頂いた者です。
その時、「慈しみの心を持って」とアドバイス頂きましたがなかなかそのような心になれません。
もともと母は思ったことを悪気なく口に出してしまい周囲がそのことで傷ついても「身内なんだから気遣いなんて必要ない」「そんな昔のこと忘れた」と平然と言ってしまいます。
外面は大変良いのですが…。
私の結婚式の前日にも、私が止めたにも関わらず、また既に双方で折り合いがついているにも関わらず「新郎側が披露宴代を多く出すべきだ」と私の夫に言い出し、情けなくてみっともなくて本当に許せませんでした。
どこの親が、一人娘の独身最後の日にわざわざトラブルになるようなことを言うのでしょうか?
ここ数年、なぜか母に言われて傷ついたことやされて嫌だったことを毎日思い出し、母の顔を見るとこれまでの恨みつらみが溢れてきて止まりません。
また母が知人と共同で投資した物件のことでもその知人と私がトラブルになり、ここ数年揉めています。公衆の面前で一方的に罵倒されたこともありました。
この数年間、私は人を恨んだり、「なんで私ばかりこんな目に?」と人を羨んだりしてばかりです。
理解ある伴侶がいるにも関わらず、その幸せにすら目が向かず、嫌な事ばかり注視しています。
人に対してもとても厳しくなり柔軟性もなくなりました。なので新しい人間関係をなかなか作れずにいます。
今の私にはどうしても母やその知人を許すことができません。
許した方が自分にとっても楽なはずなのに、「許す」=「負け」だと思ってしまうのです。
このように心が狭い私は、どうしたら許すことができるのでしょうか?
できれば毎日笑って暮らしたいです。
読みづらい文章で申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
どうせすぐ死ぬ母
あなたの母親は放っておきましょう。
私は早くに母を亡くしましたが、母親がいなくても大人なので困ることはありません。
だから、お母様を手放してください。
遠い親戚のおばちゃんだと思って、適当にトラブルのないようにお付きあいすればよいでしょう。
一人の人間として慈しみは持ちつつ、過度の期待はしないで気長にいきましょう。
筏のたとえ-肩から筏を降ろして歩く
仏教では、行為に対してはそれを「許す」・「許さない」という見方ではなく、その行為をありのままに見ること、それは無我の立場に立って、その行為の原因と結果を見るという見方になると思います。では、無我の立場に立って原因と結果を見るとは、どういう見方でしょうか。それは、特にも原因を固定的、一方的に見ないことです。必ず一度は相手の立場に立って考えることです。もちろん、それは自分自身を相手に合わせることではありません。どんなに自分が正しいと思っても、それに縛られ、他の見方を一方的に排斥し、受容することが出来ないことは仏教における正しい見方ではないということです。
原始仏教経典の中に「筏(いかだ)のたとえ」という喩話があります。「ある人が川を渡るために筏を作り、そして無事、向こう岸に渡ることができた。その時、“この筏は私のために非常に役立った筏である。これからもこの筏を肩にかついで持ち歩こう。”とその人は思った。しかしこれは愚かな考えである。この筏のたとえのように、どんなに正しい教えでも、それに執着してはいけない。ましてや、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」という喩話です。そうすれば、どんなに自分が正しいと思っても、一度、相手がどのような理由で行動しているのかを理解してあげること、「筏のたとえ」で言えば、一度、筏を肩から降ろすことが大切なことになってくるでしょう。そのうえで、自分の考えを相手に伝えてはどうでしょうか。特にも相手が家族の場合、割り切った、ドライな付き合いはなかなかできないことだと思います。そのような人間関係において、一方的にこちらが善で、相手が悪と決め付けた見方では、解決の糸口は見えてこないでしょうし、相手もあなたの気持ちを理解することは難しいかもしれません。
無論、ビジネスにおける交渉や、裁判等の論争においては、自分の意見、主張を貫くことは否定されるべきことではありません。ただ、そのような分野においても、そこに解決策が見えてこない状況では、上記のようなものの見方は有効だと思っています。
具体的なお話はできませんでしたが、少しでもご参考になれば幸いです。
質問者からのお礼
お二人ともご回答ありがとうございました。
いろいろと思うところもありました。短いお礼しか今は言えないのですが、ありがとうございました。