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お墓の前で2種類のお経を唱えること

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実家は元々、地域的に浄土真宗です。
一方で父が仏教系の新興宗教にどっぷりと浸かっています。
父自身が自分の中だけにそれをおさめてくれると良いのですが、たまに帰省して一緒にお墓まいりに行くと、浄土真宗のお経をお寺さんに上げていただく以外に、お墓の前で父がその新興宗教のお経を唱えます。
また、私はマウス試験(実験後はガスで処分)の仕事をしていた経験がありまして、今、私がパッとしないのを、父に全部それと関連付けられ、嫌な思いでいます。
長い間父とは距離を置いていますが、父は私を思うあまり、その新興宗教で、私の分の何かを勝手に買って、毎日私の分まで拝んでくれているそうです。
ありがたい思いですがかなり気色悪いです。自分の宗教観は自分で管理したいです。
(父は、話し合いをできない人です。)
私は宗教に関して、知識はほぼ皆無ですが、父が違うお経を唱えることで、ご先祖様や私の何かが迷うことは無いのでしょうか?
目に見えないものは無視しても良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

好きにさせておいてあげてください

お父さんは、自分が病んでいるのでしょう。
愛という名目のもと、カモられているだけでしょう。
そんなことにヘタにお金使うくらいなら、そっちを断ってアタシの小遣いとして「くれ」と言った方がいいでしょう。
アナタも変な新興宗教に親父と財布を持ってかれないようにしっかりして、ちゃんと理知的なコミュニケーションをして父親のアヤシイ信仰を論破する勢いで立ち向かうことですよ。
「それをやったところでどうなる?やらなかったらどうなる?」
「ためしにやらないでみて、それで本当に不幸があれば信じる。もし、何もなければそのアヤシイ宗教にお金をどんどん持っていかれて、娘から信頼されていない親父になっていっているってこと自体の方が不幸だって気づいたら?」

お父さんは、研究熱心で色々願いはあったが、思い通りにはならなかった。
動物を大量に殺処分することで、どこかしら自責の念があった。
そこを新興宗教に付け込まれ、洗脳された。
本当の仏はそんなものに振り回されるようなものではありませんからご安心ください。
仮に私にその新興宗教で呪いをかけても効き目はありません。
あなたはあなたの信ずる宗教を見つけてください。
ただし表向きや入り口はみんなきれいないい言葉で飾り立てられています。
絵空事の不確かなものを信じさせるようなものは、やめておいた方がいいでしょう。
すでにアナタが目には見えないものに振り回されているからです。
そういうものをちゃんと理知的にはっきりと濁さずに論破できるものを信仰せんでもいいですから、勉強してください。
一ついい公案をお授けましょう。
「仏と悪魔、神と悪魔が同じ姿でやってきて、いい言葉を並べ立てている。さて、どうやってその正体を見極められるか?」

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
本当の仏はそんなものに振り回されない
とのこと。ほっとしました。

実は、去年末に(母方の)祖父を亡くし、祖父と仲良しだった祖母も、今月1日に亡くなりました。
二人共、自分の人生をきちんと生き抜いたと尊敬しているし、盆暮れだけの交流だったのに、意外に喪失感が尾を引いています。
親戚関係もガラッと変わりました。
ここのところの体調不良は悲しさや不安を押し殺しているのが大きな原因かもしれないと、今思いました。
特に祖父は、勉強したかったのに事情があり叶わず、それにも関わらず自分の勤めである農業を亡くなるまで果たした、ぼろ着を着たかっこいい人でした。
「とにかく、よく勉強して下さい。」と私にはいつも云ってくれました。

仰っていただいた通り、信仰云々の前に、勉強したいと思いました。
本を読むだけではなくて、色々な人の話を聞いてみたいです。
それが、孤独感を薄める方法にも繋がるような気がします。

いただいた公案につきまして
(勉強していない今の私には、神仏とは何か、悪魔とは何かも分かりませんが…。)
仏と悪魔がやってきたその時点では、見分けはつかない。
仏も悪魔も同じもので、置かれる環境によって、仏にも悪魔にもなる。

今日、たまたま漫画家のちばてつやさんの戦争体験を聞き、そうかな、と思いました。
全くの見当違いでしたら、何かしらご教示いただけますと幸いです。
お坊様は、どう回答されるのでしょうか…。
課題を出されると、それについてずっと考えていられるので、幸せです。
ありがとうございました。

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