死んだ後、無事に家族に会えるのか
ふと死後の世界を考えて、疑問があったので質問させてください。
私は末っ子です。事故や病気にならずに健康体であれば、順番的に私は最後1人で死ぬ事となるでしょう。
結婚などをすればまた違うのでしょうが、結婚はしようとは思っていません。
もし一生独身で生涯に幕を閉じる場合です、天国でちゃんと家族と無事に合流というか、ちゃんと会えるのか心配です。
私の勝手な想像なのですが、死んだ後は
1人厚い雲の中をかき分けて、天国への階段を探し、天国へ目指すというような感じです。その間に道に迷って、天国に行けず、家族にも会えない、という事があるのでしょうか?それが心配です。
それか、死んだ後にちゃんと天国への道しるべがあってちゃんと合流できるようになっているのでしょうか?
死んだ後の事なので、そこに意識があるのかも分かりませんが、死んだ後はちゃんと迷わずに天国に行って家族に会いたいです。
また、私は幼少期には問題児で人に迷惑をかける事をしてしまいました。
私は地獄行きなのでしょうか?
死後の世界とはどういう風になっているのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死後の物語は「はたらき」として私において「事実」となる
死後の世界について考える時は「わからない」ということが前提です。
「わからない」ものを「きっとこうだろう」と妄想し、本当にそうなったらどうしようと自ら苦しんでいるとしたらまずはその考えを手放さなければいけません。
その上でですが、人は必ず死にます。よって死についての考えが定まらないことには生きていても常に不安が残ります。
そこで宗教の出番となります。探せば様々な死後世界についての教えが有ることでしょう。
しかしそれはどれも「物語」です。ですが同時に「物語」は「はたらき」として「事実」になります。
それはフィクションの映画やドラマを見て実際に感動したり、自分の存在について深く問うたりということがあるように、死後の「物語」によって今、死後への不安が解消される、あるいは不安を不安のまま抱えていけるというものです。
死後の問題は「今」の問題です。死後について「今」不安であることと、実際に「死後」はどうなっているかは少し別問題です。
ですから是非あんこさんも「今」救われる死後の物語に出会ってください。
浄土真宗では「浄土」という物語が説かれます。南無阿弥陀仏とお念仏した人は皆もれなく浄土に生まれるのだという物語です。
仏説阿弥陀経というお経には「倶会一処(くえいっしょ)」と説かれます。
倶(とも)に一つの処(ところ)にて会する=一つの場所に生まれ再会する
というくらいの意味です。この文言はその内容によって人々に親しまれ、墓碑にもよく刻まれます。
しかしそれには実は前提があります。お経では「諸上善人 倶会一処」と説かれているのです。
「家族とともに」ではなく「諸々の上善の人=仏や菩薩」とともになのです。
つまりどういうことかというと、家族だけじゃなく嫌いな親族のあの人も、苦手なご近所のあの人も、地球の反対側で苦しんでいる子どもたちも、思いを馳せることもできない知らない人たちも、あらゆる人を私にとって「上善の人」=「善き人、色んなことを教えてくれる有難い人」と見出いしていく世界として、平等に一処にて会するということです。
家族だけという狭い範囲の話ではないのですよ。もちろんご家族も含まれますけどね。
良い事をした人も、悪いことをした人も、あらゆる川の水がやがて海に入って一つになるように、生き様や死に様を問わずみな生まれる世界、それを「浄土」と私たちは呼ぶのです。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
死後の不安ばかりにとらわれ過ぎていました。
ちゃんと前を向いて歩かないからこのような不安に陥ってしまったのかなと感じています。
もっと前向きに、今の現実に向き合うことが大切だと感じました。