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美容整形に失敗しました

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卒業と就職が決まった大学生です。就職する前に、と目の整形をしました。

顔が大きく変わってしまい、かつ痛みなどの後遺症が残りました。

そこでやっと自分本来の顔の良さに気づき、後悔して、死にたいです。
精神的に参ってしまい体調も悪く何もできません。友達や家族には相談しました。けど顔も可愛くなくて、暗くなり、何もできなくて今後新たな人間関係を作るのが怖いです。

就職先に相談したら半年から一年就職時期も伸ばせるかもしれないですが悩んでいます。
元に近づけるような手術もありますが、リスクもあります。後遺症についてはまだ分からないのですが、再手術すべきかも悩んでます。

傲慢かもしれませんが自分は顔も中身もすごく努力して来た(と思ってて)、今回それが失敗で取り返しがつかなくて、死にたいです。働けなかったら、親が面倒見れなくなった後暮らしていけるのか分かりません。写真は撮りたくないし、目も痛いし、今後友達を作ったり結婚できるのかも仕事ができるのかも分かりません。

整形さえしなければ人生で1番くらいに楽しかったのに自分でめちゃくちゃにしてしまいました。
今後どうしたら良いかわかりません。

死にたいです。
幸せを自分でぶち壊して、転落してしまいました。
どう決断し、気持ちを整理したらいいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

苦しいのは心

坐禅中に顔を見る人はいません。
一度顔を手放すことです。
あなたは顔を四六時中握っているのです。
人はさほどあなたの顔なんて気にしていないものです。
本当です。
私もかつて学生時代に目にはれものができて手術をしたら顔が変わりました。
ずっと気にしていましたが、周りの人は気づいてもいません。
結局本人の自意識過剰なのです。
数年前は鼻の通りが悪いので耳鼻科に行ったら「鼻が曲がっている」といわれました。
(._.)鼻がまがっているのですか?
( ゚Д゚)鼻です。
(._.)心が曲がっているとかでなく?
( ゚Д゚)鼻です。
(._.)へそ曲がりとかではなく?
( ゚Д゚)鼻です。
※実際に病院で行った問答です。

逆にいじり倒している人たちのことを考えてみましょう。
曲がっているのは私のように目でも鼻でもなく心なのです。
今の自分のままでは「だめだ」「いけない」「おもしろくない」「すきになれない」というあらかじめのものの見方こそ美容すべきなのに、顔に自身のない人たちを誘惑して変化をさせて結局不満足地獄へ突き落すのです。
心の美容の道を歩むことです。
今、数秒でもこれをみていた時、自分の顔を気にして鏡を忘れていたはずです。
それが、顔を手放した心です。
顔が気になる、気にする、気にし続けるのは執着です。
あなたは顔が変わったことが苦しいのではなく、執着が苦しいのです。
治すべきものがあるとすれば、心です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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