両親のお墓のお参りが好きではありません。
私は両親のお墓参りが好きではありません。
何故なら、お墓に両親は居てないからです。もうこの世に居ない事を実感させられるのが辛いので、行きたくないんです。
ここの所、色々悩む事があり、両親が生きていたならどう言ってくれるだろう。とか、両親が生きていてくれさえいれば、こんな辛い思いも少しは和らげたかもしれない。などと思う事があります。
それと、私のねたみの気持ちもあります。まだ私の年齢であれば、片親どころか両親揃ってる友達もたくさんいます。お墓に行くと、そういう事を実感し、寂しくなってしまいます。
お父さんとお母さんに会いたいです。
ちなみに母は亡くなって20年以上、父は10年程経ちます。
よくお墓参りに行くと清々しいなんて聞きますが、私にもそんな日が来るのでしょうか?
お父さんとお母さんと話がしたいです。
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亡き人に遇う
ご相談拝読しました。
お墓参りが好きではないのですね。それでは無理になさることもないのではないでしょうか。
しかし色々と悩みは抱えておられ、ご両親に会いたい、話したい、相談したいというお気持ちをお持ちなのですね。
それは辛く悲しいことではありますが、ご両親がこの世におられない事実がある以上、生前と同じように生身の人と人として面と向かいながら会ったり話すことはかないません。
それでも、私たちが「亡き人に遇う」ことが全くないということはないと思います。
では、「亡き人に遇う」とはどういう事かと言うと、
・亡き人の心に触れる
・亡き人が大事にしていた事に気づく
・亡き人に教わったことを実践する
そうする形として、それはあり得るのではないでしょうか。
ある老夫婦の話を紹介します。
おしどり夫婦で有名だったおじいさんと、おばあさん。おばあさんは社交的でいつも家を留守にしていました。一方おじいさんは家でよく草むしりや庭木の手入れをしていたそうです。
そんなご夫婦でしたが、ある日突然おじいさんが亡くなってしまいました。社交的だったおばあさんはすっかりふさぎ込んでしまい家に閉じこもっていました。
ある日、おばあさんはまた家にこもっていたのですがでふと窓から外の景色が目に入りました。おじいさんがいなくなってしまい、草が荒れ放題になった庭が目に入ったのです。
おばあさんはなんだか気が向いて草むしりをすることにしました。なれないため、汗だくになりながら、腰をさすりながら頑張りました。そしてようやくむしり終わってふと空を見上げた時、そこにはとても広く澄んでおだやかな青空が広がっていました。
その時おばあさんはこう叫んだそうです。
「おじいさんに遇えた!おじいさんはこんな景色をみていたんだなあ!」
と。
よっちさんもこれからそのような瞬間があるのではないでしょうか。人によってはそうした亡き人の対話や出会いをしやすい場所としてお墓があげられたりします。
よっちさんにとってもいつかお墓をそのように感じられるのかはわかりません。
しかし、お墓に限らずよっちさんにとってそういう「亡き人に遇う」場所や時間や方法や状況があればお墓にこだわる必要はないと思います。
これからもご両親への思いを大切にしてください。
合掌
質問者からのお礼
早速のご回答ありがとうございました。
もう会えない両親の想いは絶えることはありません。
誰かこの気持ちが共有できる人が身近に居ればまた気持ちも少しは楽になれると思ってました。
しかしご回答を読ませて頂き、両親の事を思い出し、その気持ちを大切にするだけでも遭う事ができることができるとの事で、少し救われた気がしました。
正直、両親が大切にしていたものなど覚えていません。
しかし娘である私を大切に大切に育てもらい、愛情を最大に注いでくれた事は間違いない事実です。
その事を思うと、死にたい、私なんかこの世に居ても、などと思ってしまう事は本当に両親を裏切る事になりますね。
これから、私の人生どうなるかわかりません。
しかし辛い時は、両親の愛情を思い出しあの世の両親とお話してみます。
私の気持ちが落ち着き穏やかになれば、また清々しい気持ちでお墓参りに行くことができるかと思います。
あたたかいご回答ありがとうございました。