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自分の境遇

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

私は不治の病、双極性障害(躁鬱病)を患っています。

今は母と兄弟と暮らしています。

街やテレビの中ではライトアップされてますね。
楽しめる普通の人たちがうらやましいです。

この病気になり友人知人がいなくなりました。
みんなは普通に結婚して普通に子どもがいてマイホームを持ちいい暮らしをしています。

私は独身で寝込む病気なので不安だらけの毎日。
今できることはジグソーパズルと軽い家事くらいです。
ただ時間つぶしのために生きています。
みんなは仕事をしたり子育てをしているのにジグソーパズルとは・・・

生産的な日々を送っている人たちがうらやましいです。
そういう人たちのようにはなれませんが、考え方などで生きやすくなるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

不治の病はない という 方向で。

病気というものは病気であっても、その病症を気にしていない時は病気であっても病気に屈していない状態があるので、病気であっても病気ではないということを知ってください。
人間は誰でもいつか死ぬ。
つまり人間は生まれてきた以上必ず死ぬという死の病にかかっているのです。
それでも、みなケロリンと忘れて生活している。
私だってお寺の建築の借金がウンゼンマンありますが、忘れている時は借金といってもあってなきがごとし。
そういう姿勢で過ごしてみてください。
ウツをウツと名づけて喜ぶは精神科医くらいなものです。
私は仮にウツと名づけられても決して屈しません。
心の病というものは自分自身も時として加担者となってしまうことがあります。
自分が自分を病であるというと大体はネガティブなイメージがつくものです。
木はキノコやコケと共存しています。
木にとってコケは病でしょうか。
私は虫歯や腹痛、鼻炎、ひざの痛み、尾てい骨損傷、風邪、借金、死…、様々なコケやキノコと共存しながらも、ここで人を助けたり笑わしたりしています。
ということはあなたにもそれがデキるということです。
自分が自分の病のネガティブイメージに屈しなくなった時、私やあなたに鬱だと断定したり、薬を売りつける医者は「チッ!」と舌打ちするでしょう。
健康な人でさえ、鬱にさせられてしまうこの時代。
別に精神科医が悪いとは申し上げませんが、それでも病のネガティブな気質に騙されないでいてもらいたいと思います。(*´ω`*)
治らん病でも、病を忘れている時にゃ、体は病であっても心は病まず。
心が病になったとしても、出てくる思いを拾い上げずに処すときは、たとえ黒い思いでも持ち主が拾わなきゃ、誰も拾わず流れゆくのみ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

申しわけございません。
お礼が遅くなりました。
お忙しい中、ありがとうございました。

病気にこだわり過ぎている自分に気づきました。
気づきは大事ですよね。
本当にありがとうございました。

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