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死んだ人に引き寄せる力ってあると思いますか?

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もし認知症の母親より私の方が先に死んだら、出来るだけ早く呼び寄せたいと思います。そんな力ってあると思いますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無いです。が、結果的に15%くらいはあります。

あなたが先に死んでしまえば親はガッカリ。
気力を失います。
なんで、何十年と育ててきて支援してきたわが子が、私をこんなに苦しめるようなひどい仕打ちをするの…。
死にたい、死にたいと言われるならその死にたい精神で真実の生き方を求めるべきです。
私は現在、アニサキス+急性腸炎で最低7日から10日の入院を今日、医師から宣告された超~、不幸不運不健康な体です。
そんな男がどうして、自分の身よりあなたのような死にたい人間を助けようとしていたりするのでしょう。
あなたですら、いっぱいいっぱい。
私だって胃が苦しくて仕方ありません。
そんな人間が人を助けようというこの姿勢は何事でしょうか。
そういう生き方があるよということです。
あなたは死にたい生き方しか知らない。
もっと世界を広く知ってほしい。
私もかつて死にたいときは何でもかんでも暗くネガティブに考えていました。
ところが、そういう行為の本質は元々この世は真っさら、キレイピカピカ、ソーbeautifulな世界なのにもかかわらず、自分の過剰な思考が、この美しい世界をネガティブなペイントで塗りたくって、この世を自ら悪いものにしているという思考回路が働いているのです。
そういう、自分の負のループ、負の連鎖、ネガティブな思考というものは、陶酔であったり、そこにとどまろうとするSOS信号であったり、単に解決法を知らないから何もできないという心理なのです。
人生には導き手が必要です。
私はあなたをはじめ、この世のすべての人が、アニサキスで超激腹痛であっても、人を助けられる力を駆使して少しでもこの世を良くしていこうという心を持ち続けていく人がどんどん増えてほしいと思います
今日からお約束。
ケチをやめてください。
ケチをやめるには自分のものを持たないこと。
これは私の私の…という握り根性がある人は、人に施せません。
自分も死んで母ちゃんまで引きよせようなんてペケ中のペケです。
せめて一人で死んでくだ…、とは言いません。
せめて、死ぬ勇気がおありなのでしたら、怒りの心をふるい起こしてください。
こんなことで死んでたまるか!と私のように道を求めてください。
具体的にどうすればいいかはまたいつでもお問い合わせください。
あなたはかつての私です。
アニサキスで七転八倒してますが、それでも手を差し伸べる人間がいる。
そういう人間になってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

教えてくださりありがとうございました。
お身体お大事になさってください。

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