カルマとは回答受付中
娘を亡くしました
カルマと言う言葉がありますが
娘も私も前世で罪を犯して
こんな思いを現世でしているのでしょうか
もし来世があるのなら、同じ事を繰り返しになるのでしょうか
ならもう生まれ変わりたくないと願います
私はともかく娘は本当に悪いことをした事がない人間でした
なぜこんな目にあったのでしょうか
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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カルマは前世の罪ではありません
大切な方を亡くした悲しみの深さは他人には計り知れないものですし、それがお子さんであればなおさらのこと受け入れがたいものでしょう。そうすると、私たちの心は「こんなに酷いことが起こるには、何かよほど酷い理由があるはずだ」と、なんとか解釈して意味付けようとします。
生命が今世に生まれる時に、どのような姿形でどのような世界に生まれるかは、前世で行ったたくさんの良い行い、悪い行いが原因(因)となって相互に作用して形作られた「状態」によります。
この「状態」のことをカルマ(業)と名付けます。
前世での行いには良いものも悪いものもあります。ですからカルマを、前世の罪を今世で罰せられることと考えるのは正しくありません。
カルマは、次々に行われ現れる無数の因の相互作用によって更新されますから、今世の経験を来世でも繰り返すということはありません。
カルマは、意識的か無意識かにかかわらず時々刻々に行われ続ける行いによって現れ更新される「状態」であって、罪でも罰でもありません。また逆に手柄でも御褒美でもありません。
今世での生命の形を決めたカルマがどのようなものであったか、来世の生命の形を決めるカルマがどのようなものであるか正確に知ったり予想することは私たちにはできません。
ポイントは、今世でのつらい経験は自分や大切な方が以前、罪人や悪人だったから起こったものではないと知ることです。罪とか罰という意味付けは、深い悲しみのあまりに生み出された妄想です。
この妄想は、たとえば虫にさされた痒みを爪で掻いてしまうことに似ています。掻くとその一時は痒みが消えるように錯覚しますが、実際にはさらに皮膚を傷つけ痒みに痛みを重ねているだけで、痒みのもとを解決しているわけではないのです。
必要だと自分で決めた
カルマ論は難しいですが、ざっくばらんに言ってしまうと、『今のあなたに必要な体験をする』ということです
今世のあなたは、事前に娘さんの魂と相談したうえで
“あなたが娘さんの死を乗り越える経験”
が必要だと思ったから、今その経験をしているのです
だから、前世で罪などは犯したかもしれませんし、犯していないかもしれません
それよりも、今その悲しみに立ち向かい乗り越えることが、娘さんから求められている
それがカルマ論の考え方です
この考え方のいいところは、亡くなった後に娘さんの魂はあなたを待ってくれているというところでしょう
この世にはさまざまな考え方があり、その全てに救いがあると私は考えています
あなたが目にしている悲しみは大きなものです
どうか、あなたを支える考え方に辿り着ける様お祈りいたします
まず、娘さんを偲ぶことからはじめてみませんか?
ハチさん、この度は、大切なお嬢様とのお別れに、心よりお悔やみ申しあげます。言葉に尽くせぬ悲しみの中、やり場のないお気持ちを抱えご相談くださったご縁を、大切に受け止めさせていただきます。
「カルマ」という言葉によって、ご自身とお嬢様が前世で罪を犯したのではないか、とご自身を責めておられるのですね。そのお気持ちを思うと、胸が締め付けられます。「なぜ、うちの子が」「なぜ、私がこんな目に」という問いは、答えが見つからないからこそ、私たちを深く苦しめるものです。その苦しみの深さゆえに、私たちはつい「何かの罰が当たったのではないか」と、あわてて結論づけてしまうのかも知れません。
同じ言葉でも、様々な解釈や受け止め方がありますね。仏教各宗によってもその相違があり、それが宗旨の特徴にもなります。浄土真宗の教えをいただく私は、この度のことを「何かの罰」とは考えていません。「この身に降りかかった出来事は、自らの前生の業によって引き起こされたもの」とも考えません。そもそも、この世の出来事は、気づいていない(=数え切れない)ことも含めて、自分・他人・社会・環境など多くの条件が複雑に絡み合って、それぞれの結果が生まれています。
原因探しをすることより、今のハチさんにとって大切なことがあります。それは、娘さんが生きた日々を丁寧に思い起こすことです。別れの直後なら難しいかも知れませんが、少しずつ娘さんを「偲ぶ」ことをはじめてください。娘さんが何に喜び、何を楽しんだか、ハチさんたちに残してくれた思い出などをふり返ってみてください。
ハチさんは、決して独りではありません。このどうしようもない悲しみや、答えの出ない苦しみそのものに、阿弥陀如来という仏さまがじっと見守り、決して見捨てることなく、共にいてくださいます。そして、その阿弥陀如来という仏さまは、娘さんや私たちを苦しみの世界から救い出してくださる仏さまです。親なればこそ、ハチさんの悲しみやさみしさは急に消えることはないでしょうが、そのハチさんであっても、悲しみやさみしさを抱えながら生きていける道を、阿弥陀如来という仏さまは示してくださいます。
ハチさんのこれからを、ハスノハ一同応援しています。またいつでも、ご相談をお寄せください。
お嬢様との繋がり、関りは無くならず、今まさに続いております。
お嬢様を亡くされたとのこと。なんと哀しいことでございましょう。私も子供を持つ親としてお気持ち、痛いほどよく分かります。心よりお悔やみ申し上げます。
今は、本当にお辛い心境にあられると思います。
カルマとは、原因、縁、結果、そしてたった今のこともみなこの世でのはたらき、おこり、カルマです。
お嬢様がお父様の中での法としてのお姿がより高い位へとのぼられ、関わりが変わられましても、新しい存在、仏さまのお姿となられて、これからもずっと一緒に歩んでいってくださることを願っております。
お釈迦様のご遺言のお経にもこのようにあります。
わが滅びゆく体をみる者はまことに我をみる者に非ず。
悟りに目覚める者こそ常にわれを見るものなり、と。
ここで言うさとりとは正覚。正しく、聡明な心に目覚めるということであります。
正しく、聡明な心とは、お嬢様が亡くなられた今、悲しくないということではありません。悲しくて当たり前です。ですが苦しみは乗り越えなければいけません。
愛するお嬢様のことですから、すぐには心が穏やかにはなれないかもしれません。
人は前世やカルマという言葉を聞くと、生まれる前のことだと誤解される方が多いようですが、そのような論は誰も立証できません。
この世にあるどのようなものも、仕事も、人が幸せになるために存在しています。カルマというものは、決して前世がどうであるかではなく、この世全体として存在する人すべて、存在する生命すべてが関わって結果が作り出されているということです。お嬢様が不運にも亡くなられたことに、どうしても納得がいかないというお気持ちはよく分かります。
人間の身心は細胞レベルで高速微振動していて厳密には前の状態とは異なり、常に生まれ変わり続けています。前の状態ではなく、常に新しい状態であり続けているのです。前世とはお嬢様と過ごされた今から前のこと、来世とはこれからお嬢様と新しい形でかかわっていく世界のことなのです。今この瞬間を大切に生きることが、お嬢様の供養にも繋がると信じています。どうか、お心を強く持って、一日一日を大切にお過ごしください。少しずつ、少しずつ、お嬢様と心の通い合いをおつとめください。
人はどうしても、つらいことがあると我がこと、わがことの景色しか見えなくなってしまうものなのです。
お嬢様は、おそらく今、お父様にお伝えしたいことがあるはずです。