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欲がない、好きなことがない

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有り難し有り難し 16

今年の2月頃、5年付き合っていた恋人にふられました。

付き合っていた頃を思い出すと苦しくなるので、その後彼にまつわる物はほとんど処分してしまいました。当時私が好きで大事にしていた本やCD、小物類です。

大事にしても大事にされず、自分が大事にしてきた物も、自分も、一人になってからは何だか全て無意味なものに思えてしまいました。

もう10ヶ月位経ちますが、それ以来何にも興味が持てず、好き嫌いもよく分からなくなってしまいました。

最近恋人もでき、色々な場所に連れていって貰ったり、美味しいものを食べたり、新しいことにも挑戦しているのですが、それでもやはり以前のようには興味が続かないのです。
つまらない人間だと、自分でも思います。

欲も興味も湧かず、終わりがくるのを待つだけの老人のように日々が過ぎていってしまいます。

お坊さんは、自分のなかで大事にしていたものや、信じていたものがダメになってしまったことはありますか?

また、何かお坊さんのご趣味の中で、気軽に出来そうなものや、おすすめのものがありましたら教えて下さい。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

失われた感は実はマボロシ

5年の付き合いは長かったですね。
お互いが大事にしていたのも、そこに条件づけがあったからなのかもしれないですね。
付き合っている、愛し合っているという条件付けが無くなってしまうことで無意味に感じられているのかもしれませんね。
よっぽど、頼りにしていたのでしょうね。
ですが、本当によりどころとするべきことは崩れない確かなものの方がいいですよ。
私も胃袋・胃腸をよりどころとしていましたが先日アニサキスにやられましてねぇ。
他にも小腸もだいぶ傷んでいるようで。
新しい恋人ができても楽しくないということは、彼に対する未練があるのかもしれませんね。
次の三つのうちのどれでしょう・・・か。
1彼そのもの
2私を選んでくれなかったことのショック&未練
3描いていた幻想が崩れたことによる喪失感
4裏切られたガッカリしょぼくれ感
5自信凹みへこへこ丸🚢
6なんか総じて損した感
7彼を信じていた私のイメージが打ち壊されたことの自分への不信感
8あげたもの、とうししたもの返せよ感(笑)
まぁ他にあると思いますが…
彼を愛していたようでも、自分の中の彼に対する強い思いや思い込みやイメージに支配されているかもしれませんので、除霊(※彼に対する未練と自分の中の彼に対する思いが過剰に働いていて苦しい気持ちや迷いのこと)が必要でしたらご連絡を。
恋は相手に対する自分の思いが何であるかが明確になって、ペロリンとはがれませんと中々治癒いたしませんね。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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