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おばあちゃんに会いたい

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私は小さい頃とてもおばあちゃんっ子だったのですが、小学2年生の頃亡くなってしまいました。小学2年生だったこともあっておばあちゃんの家には1人で行くことができず、おばあちゃんが病気になって家の近くに入院するようになってからじゃないとお見舞いに行くことができませんでした。
でも入院してからのおばあちゃんは脳の病気でずっと寝たきりで喋ることができず、ずっと目をつぶっていました。
小さい私はいつものおばあちゃんと違うと思ってなかなか1人でお見舞いに行くことができず、そのままおばあちゃんは亡くなってしまいました。
亡くなってすぐ私は、なんでもっとおばあちゃんのお見舞いに行かなかったんだろうととても後悔しました。
1人で寂しかったに違いないのにとても申し訳なく思いました。
高校2年になった今でも少し思い出してとても申し訳なく思います。そしてとてもおばあちゃんに会いたくなります。
夢にたまにでてきたときはとても不思議な感覚になってまたよけいに会いたくなります。
でもおばあちゃんの仏壇にご飯をお供えをすることしかしてません。
おばあちゃんに私にほかになにかできることはないでしょうか。
おばあちゃんを近くに感じられることなどありませんか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ばあちゃん WALK WITH ME

知人の坊さんに出家の動機を伺ったら、昔はちゃらんぽらんだったのですが、ある時にお世話になった婆ちゃんが生きていたらと思ったら申し訳なくなってきて、自分で今やっていることが恥ずかしくなったそうです。
人というのは亡くなった後でも、活きているということです。
それを霊魂と言います。
霊魂とは外の存在ではなく、内なる働き、インナー作用、影響力。こちらが個人を資延気持ちを霊というのです。
その霊という作用として、記憶として、DNA的にもあなたは婆ちゃんが内在しているのです。
しない人間はいません。
かの出家を志した僧侶のように、あなたがあなたの中でおばあちゃんを起動させるのです。
自身のより良き導き手として敬い、これから先も人生の導きの師、自分の心を精神的に高める存在として敬うことです。それによっておばあちゃんは死にません。
死なせてしまうというのは亡くなった人を終わりにしてしまうから心の中でも本当に死んでしまうのです。これ以上はいうと安っぽくなるのでご自分で感じてください。
ちなみに仏教の墓というのは霊園の個人の無宗教の墓と違い、菩提心が願われた供養塔です。
菩提心がなければお墓もただの石。位牌もただの板です。
菩提心とは、自らの心を生老病死、四苦八苦から救い、自身の持っている力でもって世の人たちを助けてあげる気持ちを持つことです。
おばあちゃんのご供養としてあなたが立派な人間になろう、と恩返しの誓願をすることをお勧めします。
「あなたは大物になりますよ。」
おばあちゃんからです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

今のあなたを見せてあげて

こんばんは。あなたはとても優しい方ですね。自分のことばかり考えている人だって多い中、身近な家族に感謝と想いをかけられるのは、尊いことと存じます。
お仏壇には写真が飾ってありますか?私の家のお仏壇には、祖母と家族で撮った写真が飾ってあります。
そして時折、いろんな話をしに行きます。特に問題を抱えている時。自分で答えを出さなきゃならない。家族に相談できない。そういうことは、写真に向かって相談します。
いいですよ、何時間でも黙って、ずっと話しを聞いてくれます。アドバイスは直接もらえないけれど、文句もない。いつまでも静かにこっちを見ている。
だいたい、そういう時は答えに感づいているのです。でも実行できない、踏み出せないとき。不思議なことに、一通り喋って話尽くすと、「さて、やるか」という気になるものです。
その場にはいないけれど、背中を押してくれている。そんな気がします。
ご供養というのは、「こちらから思い出すこと」が根本だと思います。あなたがおばあちゃんを思い出し、語りかける時には、おばあちゃんもこちらを気にして見て下さっていると思いますよ。
あなたのことが大切という、その気持ちは生前と変わらないと思います。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
おばあちゃんの写真があるので話をしてみたりします。

ありがとうございます。
おばあちゃんに恥ずかしくないように立派な人間になりたいです。
頑張ろうと思えました。ありがとうございした。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ