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観音様の目が開くのを見ました

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丁度1年前、母親と京都旅行に行ったときのことです。

三十三間堂にお参りをした際、じっくりと千体の観音様のお顔を見ていたら、ある観音様の目が開くのを見ました。
三十三間堂の観音様は皆さん目を閉じておられますが、一瞬、確かに開いたのを見ました。
私は横から見ていたので目が合うことはなく、ただ「目撃した」感じだったのですが、これは良いことなのか、悪いことなのか、何か意味がありましたら教えて下さい。

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたも目を開けばよい

観音とは自己の本来性。人間本来の静寂性や無我に目覚めることでふつふつを現れる人間誰もが持つ究極の人間性です。神様的に拝んでいる人にはこの話は分からんでしょうが、まぁご一読を。
何でもそういうことは、自分を仏教的により良く導く機縁になさることです。
奇跡的なものや超常現象的なことは信じる人は少ないですし、危ない人と思われかねないでしょうから、人前では言わんことです。
第三者が同じものを同じ時に観ていたとして、その人には開いているようには見えなかったのであれば、それはそれでその人の真実。
大切なのはそこにどういう意味を見出すべきか。
厳しくドライに言えば、そんなものはマボロシでしょうということもできましょう。
ですが、仮にそうであってもあなたの心象作用の中に観音や仏心を求める心があってその場に行ったということは真実。それによって、機縁が生じて仮に他者には見えないにしてもあなたの脳内、脳裏では「そのように映し出された」ということはあなたの脳内真実。
であればこそ、そこに本当の観音、観自在、アバロキテシュバラの真意を今後見出すべきでしょう。
観音様、観自在菩薩とは私が学んだ禅の世界では「自身のことにすべきこと」と教わりました。
遠くのことやファンタジーの世界にしてイカンのです。
私は私自身が千手観音の行をつとめています。あなたもあなた自身の本有の智慧と慈悲心に向き合って、自身の千手観音なる心を引き出して、それを日々努めると世の中の誰かが救われるということは、私自身今も継続中です。
簡単に申し上げれば、本当に今の日本は智慧も慈悲も足りません。仏心が少ないです。
ここだけでもどれだけのお悩み相談がきているでしょうか。
あなたはあなたでお坊さんでなくてもお坊さんと同じようjにこの世の善玉菌活性化活動をつとめて頂きたいと思います。
自分が仏教によって救われてもすくわれていなくても、人の心を救うものを広めて人の心を救ってあげたり、助けてあげたり、やさしいこころを差し上げたり、わがままちゃんな人たちを良い方向へ導いてあげて頂きたいのです。
あなた自身がその時、あなたの観音の目が開くことを実感できるはずです。
自分ができる人助け命助け世助けをすることの中で、自身の慈悲とチエの目、観音五眼が開かれゆくことを感じるでしょう。さらに仏法を学んでいかれますように。合掌

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

これを霊験(れいげん)といいます

るこさん、はじめまして。質問を拝読しました。

るこさんは、京都旅行で三十三間堂にお参りをしたとき千体の観音様を見ていたら、ある観音様の目が開くのを見たのですね。

このような不思議な体験を霊験(れいげん)と言います。
仏さまとの御縁が開かれたしるしと考えてください。仏さまと直接の御縁を結ぶことができる人は希です。るこさんは、貴重な体験をされましたね。

何かのときには三十三間堂の観音さまがるこさんを守り導いてくださるでしょう。
観音さまからお守りをもらったと考えていただいたらいいと思います。

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徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

こんばんは。

 かんのんさまのめがひらいたところをみたのですね?

 かんのんさまが、いねむりをしているところを、あなたにみつかって、びっくりしたかもしれませんね。

 これからも、わるいこともよいことも、ちょっとわるいこともちょっとよいことも、とてもわるいこともとてもよいことも、おこるとおもいます。

 よいことがあるといいですね。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
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