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妻の求めている自分へ変わりたい

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昨年の7月不倫が妻にばれました。不倫期間は5か月間ほどです。最悪なことに不倫を終わらせる際に不倫相手が逆上し、妻に洗いざらいすべてを話させないと一生付きまとうか、自殺してやると脅され、妻にただのストーカー女だからとうそをついて会わせてしまいました。
その時に念書を取り、今後私と不倫相手はもう二度と会わない、このことは口外しない、家族と接触しないと約束しました(恥ずかしい話ですが、妻に取って来てもらいました。)。
念書をとったことで私は一人勝手に安心し、今後は反省し、妻や家族と一緒に前を向いて進んでいけばよいと勝手に思っていました。
妻に不倫をしてしまったこと、でもほんの遊びのつもりで本気ではないこと、やり直したいことを説明しましたが、妻としては「不倫のけじめ」をしっかりととることをせずには前を向けないといっていました。
念書をとり、相手もその後接触してこないのに、こちらから相手に再度別れを切り出す(不倫のけじめをとる)ことは、相手を逆上させる可能性もあり、私にはできませんでした(今もできないままいます。)。
そのことが、妻はずっと許せずにいるようで、「結局私の気持ちが軽くなるようなことは何もしてくれなかった。」と時々気持ちが爆発しています。直接的なけじめ以外については、銀行のカードを持たないようにする、残業するときはきちんと職場のスクリーンショットをメールで送るなどしてきているつもりですが、そもそもの部分に妻が引っかかって前を向けないようです。

長くなって恐縮ですが、半年が経過し、より直接的なけじめを取れない状況となっていますが、妻が納得するようなことは何なのか答えが出ません。ですが、何とか答えをだし、実行に移し、今後も一緒に過ごしていきたいと考えています。

何かヒントになるようなお言葉やこんな自分勝手な私の考え方を変えるにはどうしたらよいかご教示いただけると幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

奥様以外相手にしない

携帯も買い替えて奥様に土下座して本当にお詫びして、奥様の信用を取り戻すことの為だけに生きることです。あなたが相手から必要とされることに未練が残っているだけのことだと思います。相手にスキを与えているのは自分でも本心で分かっているはずです。相手とどこかでつながっていたいと思うセコい心があるのでは?
あるから、奥様に対して純一にならないのでしょう。答えはあなた自身が知っています。あしからず。はい。次の方どうぞ。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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