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自分を救えるの自分だけですが

回答数回答 3
有り難し有り難し 124

もう外側に何かを求めても、
なんも救われないと、わかっているのに、
未だに誰かに助けて欲しいと思ってしまいます。
そんな私に喝下さい。

2015年12月7日 20:50

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

字数制限があるので書き直しで返信させていただきます

自己犠牲と人のためは別物なのですよ。自己犠牲というのは私ガーの裏返しです。だから私をめぐるグルグル輪廻から抜け出すことができないのです。私も仏、アナタも仏。だから「私(仏)はどうでもいいから、アナタ(仏)が救われて!」となってしまっては筋が通りません。その想いが自分勝手です。

もっと言えば、原因と結果の流れを良い方向に調整していくことで、救いが発生します。お釈迦さまは「用水路の工事をする人が、溝を作り、水の通り道を作ってやることで、水の流れを調えるように、救いの流れを調えるよう修行しなさい」とおっしゃっています。でも自己犠牲って、その流れを止めちゃうのですよ。ちょっと流れてすぐにせき止められ、あふれて氾濫てしまう…それでは救いが救いになっていないのです。

じゃあどうするか?大きなことをしようとしてはダメ。だから私はあえて「相手を『救うことで』自分が救われる」とは書きませんでした。大切にするとか、親切にするという表現に抑えて、例話も「扉ですれ違った時にちょっと開けたまま待ってあげましたよ~」くらいのライトなものにしました。大きなことをしようとすると結果のコミットに欲や責任が生じたり、失敗が怖くなったりして救いに繋がりにくくなるのですよ。

「ちょっと開けて待ってあげましょう」くらいなら失敗できるほどの結果がありませんから、ちょっとした親切心で完結できるわけです。そういう些細なことを積み重ねて流れを作っていくと良いわけです。

人は本来、自分で前に進む力を持っています。その力を信じて、相手に協力しすぎない勇気を持つことも大切なのですよ。自分で前に進む力は自分で使わないと衰えるから、協力しすぎると逆に相手を弱らせてしまうことさえあります。まぁ、結局は程度の問題であって、0か100か、自分か他人かというような二元論では上手くいきませんよ~ということなのですけどね。肩の力を抜いて「こんにちは」くらいの軽い気持ちで親切にできれば丁度いいのだと思いますよ。

2015年12月7日 22:27
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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

やれやれ。

「外側に何かを求めても、何も救われない」ですか。
では、あなたが外側から頂いたものを、全部捨ててみましょうか?
着ている服。あなたを寒さから救ってくれていますが、他人が作ったものでしょう。ポイ。
いじっているスマホとかパソコン。貴方をつまらなさから救って(以下同)ポイ。
ふとん。あなたのからだを休めてくれていますが(以下同)ポイ。
食料。あなたを飢えから救ってくれていますが(以下同)ポイ。
お金。自分で働いたと言うかも知れませんが、「給料下さい」というから得られるのです。これこそ、あなたが外界と接しているから得られる、最たるものです。
あなたは、あなたの身の回り全てに救ってもらっているのです。一つとしてポイできない。
…と、ここまで書いて「お礼」がすでにあるのを発見しました。
急に論調を変えます。
あなたはきっと、「極端から極端へ」、単純なお人なのではないかしら。
何か決めたらまっしぐら。正しいと信じたらまっしぐら。
「まっしぐら」に行かないこと。これ仏教の教えです。「ほどほどにしなさい」。
「ほどほど」は面倒ですけれど、「まっしぐら」な人は、結局(自分を含めて)人を疲れさせます。だからお坊さん方みなさん「やってもらい・かつやってあげなさい」と言われているのだと思います。

2015年12月7日 23:00
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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...

あなたに喝を


誤解を恐れずに申し上げますが、
まずはやってみろ、ということです。
祈ってみろ!おじぎしてみろ!手を合わせてみろ!!
そこに救いがあるんです。
あいてからの見返りに救いはありません。
だからわたしは冒頭に、これらの言葉を
載せたのです。まずは「わからん」と言う前に唱えてみろ!

さちあれさちあれ。
やすらかであれやすらかであれ。
あなたのみちに
ひかりあれひかりあれ。

たすけを頂くときには、
あなたもだれかのたすけに成らねばなりません。

手をにぎる。微笑む。うなづく。おじぎをする。
手を合わせる。祈る。

これがだれかのひかりに、やすらぎになります。

自分をたすけることの出来る「じぶん」というものは、
この大自然のなかにおいてすでに多くの援けを
頂いている「じぶん」です。
すべてが自分で解決できるはずがないのです。
基本は大自然に「おまかせ」です。
でも出来る限り、最小限、あなたに出来る事を
務めください。それがあなたの「たすけ」になるのです。
これがわたしからの喝。

あなたにさちあれ。さちあれ。
合掌

2015年12月7日 21:34
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ありがとうございます。
救われたかったら、
人のためになることをしろってことですね。
私は優し過ぎると言われます。
自己犠牲しすぎてしまうんです。

でも、人のために生きらないとダメなんですね…。ますますわからないです。

追記です。
おっしゃていることなんとなくわかりました。
そうです。わたしは極端なんです。もう嫌になるくらい。というか、もう嫌い。あぁ。

小さいことでいいですね。
何か目に見える大きなことをするのではなくて、
大切な人の幸せを祈ったり、
家の花壇の花が綺麗に咲くように細やかな手入れしたりみたいな、
小さな幸せがつながるんですね、 。

「自分とは・自分を何とかしたい」問答一覧

アイデンティティーの確立で悩んでいます。

ふとした瞬間に「私って何なんだろう」と思うことがあります。 「自己同一性」で検索すると、 “「自分は何者か」「自分はどんな人生を歩みたいか」「自分はどんな仕事がしたいのか」「自分の趣味は何か」「自分はどうして生きているのか」といった問いを通して、自分自身を形成していく” という文章が出てきました。この問いのすべてに、私ははっきりとした答えを出すことができません。 寝て起きると、昨日とまったく違うことを考えている自分がいます。昨日は腹を立てていたことが今日はまったく気にならなくなっていたり、逆に何ともなかったことが妙に気に障ったりします。5分前の自分と、今の自分が同じ人間だという確信が持てません。明日の私はこんなことで悩んでいないと思います。 今一緒に働いている人は良い人ばかりですが、仕事にやりがいはないです。ただ来た仕事を淡々とこなすだけで、「職人肌だね」と褒められることはありますが、楽しくはありません。また、吹けば飛ぶような会社なので、10年後同じ仕事をしているとも思えません。誰でもできる仕事ですが、いわゆるクリエイター職なので、「何者かにならなければならない」という焦燥感に駆られます。ですが、空っぽな人間なので、焦って空回って疲れて眠って終わり、という日々です。「何者かになる必要なんてない」「私は空っぽじゃない」と言い聞かせても、いつの間にかぐるぐる考えてしまいます。 「好きなことくらいあるでしょう」と周りは言います。確かに《今》好きなものはあります。ただ「本当に?」と自問すると、本当に好きかどうか分からなくなります。子どものときからとにかく飽き性で、諦めが早く、いろんな物事に手を出してはさっさと放り出す癖があります。しかも、一度興味を失くすと、ほとんど見向きもしなくなります。 人生の目標もありません。子どもが欲しいとは思っていませんし、そもそも結婚願望がなく、誰かとお付き合いする気力もありません。友だち付き合いも希薄です。 好きなものを見つけたい、ない、やりたいことをやりたい、できない、やらなければならない、やりたくない、やりたい、できるわけない、そんなことばかり考えています。何から手をつければよいかも分かりません。もしかしたら私は恵まれているから、現状に甘えてるだけなのでしょうか。自分のことが分かりません。そろそろ発狂しそうです。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

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初めて質問をさせて頂きます。 私は40代になります。 大学院を出て、2度転職し、自営業を営んでいました。 昨年、仕事に行き詰まり、病院で2カ月をすごした後、会社をたたむことにしました。 どの職場でも周りの人に助けられたこともあり、何とかやってこれたと思っています。 そして、この度会社をたたんで、以前から関心があった飲食店を始めたいと思い、アルバイトを始めます。 思い返すと、自分のやりたいことばかりをやってきました。 ただ、自分が何の成果を残せたのか、誇れるものがありません。 現在は親に経済的な援助を受けながら、飲食店でのアルバイトを始めることになりました。 私自身が40代、そして両親が70代となり、これまでの生き方が本当に一生懸命に生きてきたのか自信がありません。 これからは一から頑張らなければと思った矢先に、自分のふがいなさ、親への負い目、社会の目がどうしても気になり、ふさぎこむことが多いのが正直なところです。 人は人と思いながらも、どうしても自分の自信や前向きな気持ちがおれることがあります。 胸をはって、少なくとも親には恥ずかしくない時間をこれからは送りたいと考えています。 このような中途半端な生き方をしてきた自分にもう一度立ち上がる勇気や図太さを持つには、どのように日々を生きていくべきでしょうか。

有り難し有り難し 26
回答数回答 1

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はじめまして。 うまくお話しできるか、わからないのですが… ここ最近、自分の思想がどこにあるのかわからず、お話を聞いていただきたいと思い、投稿させていただきました。 まず、私は特に、何教徒である、ですとか、特定の宗教には属しておりません。 ただ、色々と自身の考えと当てはまるものを探すなかで、最も共感できるのが仏教でしたので、こちらにおります。 私は漠然と、神様が存在していると思っています。 神が人間を作ったと思っています。 しかし、それは聖書にあるような、直接的に人間を作り出すようなものというよりは、 人が一冊の本を作り上げるようなものだと思っています。 『神』が、この世界を作り上げ、そのなかで『キリスト教』『イスラム教』『仏教』といった… 語弊を恐れずに申し上げるならば、『地球というなかの物語の設定としての宗教』を作り上げているのではないか、と思ってしまうのです。 そうした、なんでもできてしまう神のような、宇宙の外にある大きな力が、私は怖くてたまりません。 あまりに苦しいとき、そうした『神』が、私に何かバチを与えているのではないか、とさえ感じます。 しかし一方で、仏教の『因果応報』という教えを知ったとき、どこか救われるような感覚がありました。 私が苦しんだり、喜んだりするのは、宇宙の外にある神のせいではなく、自分自身の行いの結果なのだ、と。 それから、少しずつ仏教について調べ始めていますが、やはり何か神様のようなものの存在は、否定できずにいます。 そもそも、誰か一人でも信じ、信仰し、救われている人がいるならば、キリスト教の神も、イスラム教の神も、はたまた新興宗教の神であっても、存在していると思うし、それを否定したくないのです。 自分の信じるもののために、誰かが信じるものを否定したくありませんし、ないものにしたくありません。 一方で、どこか神様のようなものに怯えている自分がいますし、こんな自分が仏教の教えに惹かれることは、それこそバチが当たるのではないかと思います。 うまくお話しできたかわかりませんが、心のもちようがわからず、難しく感じております。 なにかアドバイスなどありましたら、ぜひ教えてください。

有り難し有り難し 59
回答数回答 4

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有り難し有り難し 29
回答数回答 1

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有り難し有り難し 73
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