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自分を救えるの自分だけですが

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もう外側に何かを求めても、
なんも救われないと、わかっているのに、
未だに誰かに助けて欲しいと思ってしまいます。
そんな私に喝下さい。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

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自己犠牲と人のためは別物なのですよ。自己犠牲というのは私ガーの裏返しです。だから私をめぐるグルグル輪廻から抜け出すことができないのです。私も仏、アナタも仏。だから「私(仏)はどうでもいいから、アナタ(仏)が救われて!」となってしまっては筋が通りません。その想いが自分勝手です。

もっと言えば、原因と結果の流れを良い方向に調整していくことで、救いが発生します。お釈迦さまは「用水路の工事をする人が、溝を作り、水の通り道を作ってやることで、水の流れを調えるように、救いの流れを調えるよう修行しなさい」とおっしゃっています。でも自己犠牲って、その流れを止めちゃうのですよ。ちょっと流れてすぐにせき止められ、あふれて氾濫てしまう…それでは救いが救いになっていないのです。

じゃあどうするか?大きなことをしようとしてはダメ。だから私はあえて「相手を『救うことで』自分が救われる」とは書きませんでした。大切にするとか、親切にするという表現に抑えて、例話も「扉ですれ違った時にちょっと開けたまま待ってあげましたよ~」くらいのライトなものにしました。大きなことをしようとすると結果のコミットに欲や責任が生じたり、失敗が怖くなったりして救いに繋がりにくくなるのですよ。

「ちょっと開けて待ってあげましょう」くらいなら失敗できるほどの結果がありませんから、ちょっとした親切心で完結できるわけです。そういう些細なことを積み重ねて流れを作っていくと良いわけです。

人は本来、自分で前に進む力を持っています。その力を信じて、相手に協力しすぎない勇気を持つことも大切なのですよ。自分で前に進む力は自分で使わないと衰えるから、協力しすぎると逆に相手を弱らせてしまうことさえあります。まぁ、結局は程度の問題であって、0か100か、自分か他人かというような二元論では上手くいきませんよ~ということなのですけどね。肩の力を抜いて「こんにちは」くらいの軽い気持ちで親切にできれば丁度いいのだと思いますよ。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

やれやれ。

「外側に何かを求めても、何も救われない」ですか。
では、あなたが外側から頂いたものを、全部捨ててみましょうか?
着ている服。あなたを寒さから救ってくれていますが、他人が作ったものでしょう。ポイ。
いじっているスマホとかパソコン。貴方をつまらなさから救って(以下同)ポイ。
ふとん。あなたのからだを休めてくれていますが(以下同)ポイ。
食料。あなたを飢えから救ってくれていますが(以下同)ポイ。
お金。自分で働いたと言うかも知れませんが、「給料下さい」というから得られるのです。これこそ、あなたが外界と接しているから得られる、最たるものです。
あなたは、あなたの身の回り全てに救ってもらっているのです。一つとしてポイできない。
…と、ここまで書いて「お礼」がすでにあるのを発見しました。
急に論調を変えます。
あなたはきっと、「極端から極端へ」、単純なお人なのではないかしら。
何か決めたらまっしぐら。正しいと信じたらまっしぐら。
「まっしぐら」に行かないこと。これ仏教の教えです。「ほどほどにしなさい」。
「ほどほど」は面倒ですけれど、「まっしぐら」な人は、結局(自分を含めて)人を疲れさせます。だからお坊さん方みなさん「やってもらい・かつやってあげなさい」と言われているのだと思います。

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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...

あなたに喝を


誤解を恐れずに申し上げますが、
まずはやってみろ、ということです。
祈ってみろ!おじぎしてみろ!手を合わせてみろ!!
そこに救いがあるんです。
あいてからの見返りに救いはありません。
だからわたしは冒頭に、これらの言葉を
載せたのです。まずは「わからん」と言う前に唱えてみろ!

さちあれさちあれ。
やすらかであれやすらかであれ。
あなたのみちに
ひかりあれひかりあれ。

たすけを頂くときには、
あなたもだれかのたすけに成らねばなりません。

手をにぎる。微笑む。うなづく。おじぎをする。
手を合わせる。祈る。

これがだれかのひかりに、やすらぎになります。

自分をたすけることの出来る「じぶん」というものは、
この大自然のなかにおいてすでに多くの援けを
頂いている「じぶん」です。
すべてが自分で解決できるはずがないのです。
基本は大自然に「おまかせ」です。
でも出来る限り、最小限、あなたに出来る事を
務めください。それがあなたの「たすけ」になるのです。
これがわたしからの喝。

あなたにさちあれ。さちあれ。
合掌

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質問者からのお礼

ありがとうございます。
救われたかったら、
人のためになることをしろってことですね。
私は優し過ぎると言われます。
自己犠牲しすぎてしまうんです。

でも、人のために生きらないとダメなんですね…。ますますわからないです。

追記です。
おっしゃていることなんとなくわかりました。
そうです。わたしは極端なんです。もう嫌になるくらい。というか、もう嫌い。あぁ。

小さいことでいいですね。
何か目に見える大きなことをするのではなくて、
大切な人の幸せを祈ったり、
家の花壇の花が綺麗に咲くように細やかな手入れしたりみたいな、
小さな幸せがつながるんですね、 。

「自分とは・自分を何とかしたい」問答一覧

好きなこと、楽しいこととの距離感について

毎度、妙な質問で申し訳ありません。 私は娯楽との付き合い方が下手です。 好きなこと、楽しいこととどのように向き合っていけばいいのか悩んでいます。 ・いつか好きでいられなくなるのが怖い (無用な先の心配) ・自分よりそれを深く楽しんでいる人に嫉妬してしまう(他人との比較、妬み) ・感動的なものに触れると心が辛くなる (寂しい、切ない、軽く締め付けられるような感覚) ・楽しみ終えたあとの喪失感が怖い (これも無用な先の心配) 何かを楽しもうとすると、このような気持ちが湧いてきて、心が乱れます。 例えば何か好きな作品を見つけても、 「ネットにたくさん感想や考察が投稿されている。みんな自分よりも、愛も理解も深くて羨ましい…」 「作者さんのトークイベントかあ。楽しそう…楽しすぎて心が疲れそうだし、終わった後の喪失感が怖い…行きたいけど怖い、だったらいっそ台風で中止にでもなればすっきりするのに…」 といった考えをしてしまいます。 比較しても仕方ないのですが、なぜ他の人と同じように素直な気持ちで楽しめないのか分かりません。 私は、どのような姿勢で好きなことに向き合えばいいのでしょうか。 大変な状況にいる方々が多い中、このような矮小な悩み相談を投稿してしまい申し訳ありません。 ぜひ、お時間のある際に、お言葉を頂けると大変嬉しく思います。

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好きな事を極める力

今まで好きだと思った事に関しては突き詰められる性分だと思ってきました。 けれど、当たり前かもしれませんが、突き詰めていくと自分よりも情熱もセンスもある人に出会います。 趣味であればマイペースに続けていくので良いのでしょうが、仕事となると情熱を求められる時があり、自分の情熱のなさに自分でがっかりします。 始める時には情熱だけはあると思っていたにも関わらず、いつも気付かされるのです。 もちろん仕事に関しては自分なりに真剣に取り組み、向上心もあるつもりです。でもあと一歩足りない気がするのです。 きっと私のやろうとしている事は、好きで成り立っている仕事なのかもしれないです。休みの日にも仕事の事を考えていられるほど好きな人じゃないと難しいのかなと思います。 そして、それを求められてる気もします。 その情熱に圧倒されてしまって、しんどくなってしまう事があります。 私は自分の生活や環境やすべてを懸けてまでやりたいとは思っていないのだと自分で分かります。 どんなに好きだと思えていた事でもそうなんです。 幸せに生きる為の手段のひとつとして、その仕事をしたいと思うだけなのです。 その仕事を1日中していれば幸せとは思えません。 皆何かのプロになっている様に思うのに、私には何かを極める力がないのかなと思います。 更に、私自身の心はあまり強くないと自覚しているので、怒られたり否定的な物言いをされる事が本当に苦手で、それが続くとそれが原因で仕事が続かなくなります。 仕事はできれば続けたいので、そういった環境はできるだけ避ける様にしたい。とも考えています。 突き詰めようとすると、情熱を持つ人との間に軋轢が生まれやすい気がしますし、こんなその人から見たら中途半端な気持ちでやりたいと思うのは失礼な気もします。 そんな事を考えてる内に自分が何を基準に仕事を選ぶべきか分からなくなってきました。 自分の心が病まず、毎日を送れる事を大切にしたいのなら、あまり突き詰めすぎずに無難に続けられる仕事を選ぶべきなのかなというのが今の私の出した答えでした。 偏差値が自分より高い高校を目指すのではなく、安全に入れる高校を目指すのに似ています。けれどその考え方はなんだか淋しく腑に落ちなく感じて、足踏みしています。 何か助言を頂きたいです。 よろしくお願い致します。

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好きな事が一切向いていなかったらしいです

こんにちは。今回もお坊さんの助言を聞きたくて質問させて頂きました。 今は心身共に安定し、新しい趣味もできて、お陰様で充実している毎日を過ごしています。 しかし最近、心に少しもやもやとした感情ができています。長くなりますが、どうかお付き合い下さい。 私が中学生の時にバスケ部に所属していました。元々私はスポーツはあまり好きじゃないのですが、県内でもトップクラスに上手かった兄と同じ部活に入らないと行けないと思い、不本意ながら入りました。(親にも部活には入れと言われていました) 私はそうしてバスケ部に入り、真面目にやりましたが、空気が読めなかったのでいじめられてしまいした。その頃のトラウマでフラッシュバックが偶に起こります。 私は耐えたのですが、私の部活の取り組み方に対して、親に怒られ、理解者がいなくなり、ついに私は折れ練習に行かなくなりました。(部活を辞めると怒られるので、結局辞めませんでした) 話が長くなるので、高校まで省きます。 私は不本意に部活に入った事へ後悔し、今度は自分の好きな事をとことん突き詰めたいと思いました。そうして恥ずかしながら選んだのはゲームです。 その時の私は中学の時の記憶に苛まれながらも必死にやりました。やり過ぎて途中から幻聴が聞こえるようになりました(流石にヤバいと思い、一旦時間を置きました) 高校3年までやりましたが、結果は出ませんでした。 オチはなく、そこで話は終わりです。 今は新しい趣味を見つけ、充実しているかと言えばしているのですが、ふと、思う事があります。 何故、兄は努力が認められ、様々な人から慕われ、学生時代を謳歌したのに、何故、兄より数倍も努力し、考え抜いた私はこんなに暗いところを独りで歩いているのかと。 才能がなかったのでしょう。ただ、何故ここまで差があるのか。人生に嫌われていると思うほどです。自分より酷い目に遭っている人もいると承知しています。ただ、なんでやる事なす事努力した事がここまで水の泡になったのか。 流石に無慈悲ではありませんか。 そしてもう一つ質問があります。 正直に言うと、そこまで長く生きたくはありません。今は少しは楽しいのですが、このままずっと兄のように日の目を見る事はないのなら、私は長生きしたくありません。 どうしたら人生に希望が持てますか?

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完璧主義とどう付き合うべきか

はじめまして。常日頃悩んでいる事をお坊さんに相談したく質問文を書きました。 最初に言うと私は完璧主義者です。いつも自身の目標を高く設定して、行っている事のミスが許せず、目標を達成出来なかったら次の日に自殺してやろうと常日頃考えていました。その性格のおかげもあって、私は自身が立てていた高い目標をいつも達成出来ていました。 しかし、高い目標に向かって努力している間はとても辛く、何かミスをしてしまった場合、ミスの対処や対策法を考えるよりも先に、自分を1時間ほど殴ってしまいます。無論、そんな時間は自分でも無駄だと分かってはいるんですが、考えるよりも先に何故か手が出てしまいます。さらに最近はこの考えが悪化してきており、今までなら見過ごしてきたような小さいミスでも、自分を強く殴ってしまいます。そのせいで、肩と太モモの青アザが大きくなってきており、お風呂に入るたびにそのアザを見て、自分は何て愚かなことをしてるんだろうと泣いています。 こんな惨めな気分にならないためにも自分の完璧主義的な考えを捨て去りたいのですが、この完璧主義的な考えのおかげで成功したことも多く、この考えを捨てたら自分がダメな人間になってしまうんじゃないかと恐れています。 お坊さん、私はどうしたら良いのか教えて下さい。今はある目標を掲げており、それを達成出来なかったら自殺するつもりですが、ここ最近は自殺の方法だけを考えています。このままでは頭がおかしくなってしまいます。 こんなこと親や友達には相談できません。私はこの完璧主義的な考えとどう付き合うべきか教えてください。よろしくお願いします。

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自分の中の恐れ

前述までで、私をある程度は分かっていただけるかと思います。 毎度、有難いお言葉本当に有難うございます。 昨年度末、きっかけがあり今年に入ってから5年ぶりくらいに実家へも帰省しました。 実家から戻ってきてからの自分の行動も自分自身で変わったと思う部分もあり、気分に左右されず自分の決めたことをやりながら目指すものに向かおうとしています。 自動車学校ではありますが、学校という名のつくものに行けていることは私の中では奇跡と言ってもいいくらいです。「俺行動できてるじゃん」そう思えたことがすごく嬉しいです。 しかし、最近になって気づきました。私が変わったのは、一定の範囲の中だと。できることが増えて、できないことから逃げてるることには変わりないです。 それは大学での一件です。思い返せば全てそのせいにしてしまっています。 いずれは、自分自身が死んだ後から遡ってなりたい人間はこういう人間だと考えるなら、必ずといっていいほど乗り越えられないといけない壁だと思っています。 他人から見ればその程度、けれども自分から見たらとんでもなく思い作業でありそういう事もそれぞれあるかとは思います。 今までの私であれば、大学当時のせいにしてそれに焦り絶望し自分を悲観しそれに飲まれていたのかとも思いますし、だからといって飲まれないことなどないありません。日々自分に負けないように必死です。 私がいきたい場所はもっとうえです。偉そうに言いますが、仏様に近い人間であると言ってもいいと思います。 それ相応の行動が必要です。行動できた自分。起きたことの悲惨さのせいにしてしまって行動できない自分。両方存在し、すごく葛藤しています。 誰も分からないでしょうが、戦争から帰還したのに、なぜ生恥を晒すのだと、自害しろと言われているような気分でした。 しかしそれが抜けてないのです。 変わった部分はあるかもしれませんが、1番大事な本質的な部分では変われていないことに気づきました。それが毎日悔しいです。最近になり逆菩薩という言葉を知りましたが、どこまでもそういう人生なにだろうと思うところもあります。 だとするなら、私が今やるべきことで、できることは自分の決めたことを精一杯やることだけでしょうか?その行動の、反省の厳しさによって、未来が変わってくるにでしょうか? 私は、どうするべきで、どうしたらいいのでしょうか?

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自分の長所は「歪み」なのか?

朝からビジネス書を読んでいて、精神医学と鬱の話が載っていて、その中に「認知の歪みは鬱になる」とありました。 さらに読み進めていくと、「他人から褒められた時に自分を実際以上に過小評価したり、自分が失敗した時に自分のミスを過大評価する考え方は認知の歪みで鬱になりやすい」とありました。 私は、地方の所謂進学校を出て都会の一応一流大学(旧帝大クラス)に入り、非正規ではありますが職に就き、それをリタイアして音楽活動を続けていますが、自分に対する褒め言葉を過大評価し過ぎず自分の失敗に対して過小評価し過ぎず大変厳しく自分を律してきたので、一流大学にも入れたし非正規でも働けてリタイアするだけの貯金も作れたし、歳を取って始めた音楽活動も10年以上続けてこれたのです。 そういう私の長所というか誇りにしてきた考え方を単に「歪んでる」みたいな言葉で相対化されて凹んでいます。 私の生き方は鬱を引き起こすのか?と。 確かに学生時代に、色々な用事を引き受け過ぎて精神的過労から3ヶ月ほど休学したことはありますが、それを1年くらいでリカバーして一流大学に合格しました。 何か、鬱を嫌い気楽に生きたほうが生きるのには楽、みたいな風潮はありますが、私はそれだと凄く退屈な日常で飽きてしまって何かやり出すと思います。 今でも他の人から見ればストイックであまり休まない日々ですが鬱にはなってはいません。 こういう、精神医学とか心理学系の著者が人間が本来持っている精神力とかバイタリティを相対化して茶化す言葉の使い方は、何か言葉そのものを貶めているような嫌な感覚があります。 人の営為を「歪んでいる」と脅して「お前は病んでいる」と診断して合理的や科学的な視点だけで人間存在を割り切る姿勢には凄く違和感があるし、たとえ言論の自由だとはいえ大手出版社が自分たちの著作で取り上げて人を傷つける意義があるのか、さっぱり分かりません。

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自分で決めたはずなのに破ってしまいました

過去に中絶の経験があります。あるきっかけがあるまでは、記憶の片隅に追いやり忘れようとして、実際に忘れているときもありました。 その後月日は流れ、別の方と結婚をして、待望の妊娠をしましたが流産となりました。 そのときに、流産となってしまった子にごめんねという気持ちと共に、堕胎した子に対しても奇跡的に私の元に宿ってくれた命だったのに堕胎した上に忘れるだなんて、なんてことをしてきてしまったのだろうと強く思い、二人の供養のために写経を始めました。 月に1回、二人の月命日のうち早い方である堕胎した子の月命日までに写経をし、手を合わすことにしていました。1年ほど続けたら、2人の祥月命日の年2回にしてずっと続けていこうと思っていました。 そうやって数ヶ月、自分なりに供養をしていたのですが。。。 今月、気づいたらその日を2日も過ぎていました。 昨今の事情もあり仕事で忙殺されていた、と言い訳するのは簡単ですが、忙しいというだけで忘れていい事ではないと思うのです。写経以外にも、毎晩、できる時には朝も、亡くなった家族や先祖代々の皆様に手を合わせていますが、その時に水子にも呼びかけていたにも関わらず、水子供養のための写経を完全に忘れる。これでは毎日手を合わせていたのもただの習慣に成り下がっていたのではないかと罪悪感でいっぱいです。 しかも特に今月は堕胎した子の祥月命日でした。よりにもよって祥月命日の供養を忘れるなんて。 実は祥月命日と私にとって大切な日が同じ日なので、忘れようとしていた期間でも思い出したりしていたのですが、今年に限って全く思い出しませんでした。 この供養が本当に二人のことを思ってやっていたことなのか、罪悪感から逃れるため自分のためにやっていたのか。。本当に二人のことを思っていたら忘れたりしませんよね。 遅れてしまった供養でも大丈夫なのでしょうか。自分で決めた供養すら忘れる、しかも年1回の祥月命日に限って忘れる私を許してくれるでしょうか。堕胎してしまった子からすれば、今まで長い間記憶の隅に追いやって、向き合い始めたと思ったらまた祥月命日を忘れるだなんてとんでもない仕打ちをしてしまったように思います。

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