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自分を救えるの自分だけですが

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有り難し有り難し 140

もう外側に何かを求めても、
なんも救われないと、わかっているのに、
未だに誰かに助けて欲しいと思ってしまいます。
そんな私に喝下さい。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

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自己犠牲と人のためは別物なのですよ。自己犠牲というのは私ガーの裏返しです。だから私をめぐるグルグル輪廻から抜け出すことができないのです。私も仏、アナタも仏。だから「私(仏)はどうでもいいから、アナタ(仏)が救われて!」となってしまっては筋が通りません。その想いが自分勝手です。

もっと言えば、原因と結果の流れを良い方向に調整していくことで、救いが発生します。お釈迦さまは「用水路の工事をする人が、溝を作り、水の通り道を作ってやることで、水の流れを調えるように、救いの流れを調えるよう修行しなさい」とおっしゃっています。でも自己犠牲って、その流れを止めちゃうのですよ。ちょっと流れてすぐにせき止められ、あふれて氾濫てしまう…それでは救いが救いになっていないのです。

じゃあどうするか?大きなことをしようとしてはダメ。だから私はあえて「相手を『救うことで』自分が救われる」とは書きませんでした。大切にするとか、親切にするという表現に抑えて、例話も「扉ですれ違った時にちょっと開けたまま待ってあげましたよ~」くらいのライトなものにしました。大きなことをしようとすると結果のコミットに欲や責任が生じたり、失敗が怖くなったりして救いに繋がりにくくなるのですよ。

「ちょっと開けて待ってあげましょう」くらいなら失敗できるほどの結果がありませんから、ちょっとした親切心で完結できるわけです。そういう些細なことを積み重ねて流れを作っていくと良いわけです。

人は本来、自分で前に進む力を持っています。その力を信じて、相手に協力しすぎない勇気を持つことも大切なのですよ。自分で前に進む力は自分で使わないと衰えるから、協力しすぎると逆に相手を弱らせてしまうことさえあります。まぁ、結局は程度の問題であって、0か100か、自分か他人かというような二元論では上手くいきませんよ~ということなのですけどね。肩の力を抜いて「こんにちは」くらいの軽い気持ちで親切にできれば丁度いいのだと思いますよ。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

やれやれ。

「外側に何かを求めても、何も救われない」ですか。
では、あなたが外側から頂いたものを、全部捨ててみましょうか?
着ている服。あなたを寒さから救ってくれていますが、他人が作ったものでしょう。ポイ。
いじっているスマホとかパソコン。貴方をつまらなさから救って(以下同)ポイ。
ふとん。あなたのからだを休めてくれていますが(以下同)ポイ。
食料。あなたを飢えから救ってくれていますが(以下同)ポイ。
お金。自分で働いたと言うかも知れませんが、「給料下さい」というから得られるのです。これこそ、あなたが外界と接しているから得られる、最たるものです。
あなたは、あなたの身の回り全てに救ってもらっているのです。一つとしてポイできない。
…と、ここまで書いて「お礼」がすでにあるのを発見しました。
急に論調を変えます。
あなたはきっと、「極端から極端へ」、単純なお人なのではないかしら。
何か決めたらまっしぐら。正しいと信じたらまっしぐら。
「まっしぐら」に行かないこと。これ仏教の教えです。「ほどほどにしなさい」。
「ほどほど」は面倒ですけれど、「まっしぐら」な人は、結局(自分を含めて)人を疲れさせます。だからお坊さん方みなさん「やってもらい・かつやってあげなさい」と言われているのだと思います。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

あなたに喝を


誤解を恐れずに申し上げますが、
まずはやってみろ、ということです。
祈ってみろ!おじぎしてみろ!手を合わせてみろ!!
そこに救いがあるんです。
あいてからの見返りに救いはありません。
だからわたしは冒頭に、これらの言葉を
載せたのです。まずは「わからん」と言う前に唱えてみろ!

さちあれさちあれ。
やすらかであれやすらかであれ。
あなたのみちに
ひかりあれひかりあれ。

たすけを頂くときには、
あなたもだれかのたすけに成らねばなりません。

手をにぎる。微笑む。うなづく。おじぎをする。
手を合わせる。祈る。

これがだれかのひかりに、やすらぎになります。

自分をたすけることの出来る「じぶん」というものは、
この大自然のなかにおいてすでに多くの援けを
頂いている「じぶん」です。
すべてが自分で解決できるはずがないのです。
基本は大自然に「おまかせ」です。
でも出来る限り、最小限、あなたに出来る事を
務めください。それがあなたの「たすけ」になるのです。
これがわたしからの喝。

あなたにさちあれ。さちあれ。
合掌

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ありがとうございます。
救われたかったら、
人のためになることをしろってことですね。
私は優し過ぎると言われます。
自己犠牲しすぎてしまうんです。

でも、人のために生きらないとダメなんですね…。ますますわからないです。

追記です。
おっしゃていることなんとなくわかりました。
そうです。わたしは極端なんです。もう嫌になるくらい。というか、もう嫌い。あぁ。

小さいことでいいですね。
何か目に見える大きなことをするのではなくて、
大切な人の幸せを祈ったり、
家の花壇の花が綺麗に咲くように細やかな手入れしたりみたいな、
小さな幸せがつながるんですね、 。

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