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出会った人達との間にいつか訪れる別れが怖い

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今後の人生について考えるタイミングがあり、ふと祖父母や両親の年齢に目を向けた時いずれ来る別れを想像して背筋がひやりとしました。

父は定年まであまり長くなく、父より10歳年下の母でさえ40代半ばです。
そして、私が物心ついてから現在までに経験した身近な親類との別れは父方の祖母のみであり、病気等はあれど父方の祖父や母方の祖父母はまだ元気にしています。
私は両親や祖父母のことが大好きです。

しかし、この春地元を離れて四年暮らすことになったために(年末や長期休みには帰ってくるつもりですが)軽く顔を見に戻ってくることは難しいように思われます。
両親と、そして祖父母と離れた暮らしを想像する中でもし、然るべき時が来てしまったらと思うととても怖くて悲しいです。

何年も前に父方の祖母が亡くなった時も、これ以上なかったのではないかと思うほどに泣き、未だに心が弱っている時に仏壇に手を合わせると泣き出してしまう時もあります。今後も経験しなければならない別れのことを考えるとたまらなく怖くなりました。

亡くなった祖母に、そしていつか私よりも先に逝ってしまうであろう祖父母や両親にその時が来たとして、また会うことはできるのでしょうか?
また、意気地無しの私を見ていてもらうことはできるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

むしろ別れている時間の方が長いものです

人間の9割方がそう考えてしまうものですが、お友達にしても親兄弟にしてもあっていない時の方が長いと思いませんか。実際もそのはずです。普段の生活、ご飯、学校、寝てるとき、みんな別々です。ご飯を一緒に食べると言いましてもなー、食べてるもんは別々なのです。
このように逆に考えた方がイイです。
そうすると会えている時の方を大事にできます。
友達も家族も出会った人も、いつも会っているような、いつもいるような気がするのは錯覚です。本当は、出会っている時しかあっていないのです。
私の回答も眼を離せばそれでホナ、さようならです。
みんあがみんな一期一会です。
だからこそ、どんな出会いもちゃんと出会っている時の事の方を大事にしてください。
今出会っていない時はあなたは自分自身にも出会っています。
他の人と出会っている時であっても自分自身と出会っています。
お会いして離れた後も自分自身と出会っています。
この自分自身とだけは決して離れられません。
この自分自身が今出会っていることこそ、本当の出会いです。
今出会っていない人のことを、出会っていない時にまで過剰に思って、今そこで出会うべき存在を見逃してはいけません。
本当に会う、本当に出会うということの方を大事にすればよいのです。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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