不幸が続くのには理由があるの?
半年前、家族に捨てられました。
父母弟がいました。
今までは自信を持ってどこにも負けない仲良し家族だと思っていました。学生時代や前職など、典型的ないじめられっ子体質な私はあまり社会の輪に溶け込めず人間関係に悩んでいました。そんな私を支えてくれていたのが家族の存在で、生きる理由でした。貧しい家庭でしたが、楽しい日々でした。
ですが、些細な事がきっかけで喧嘩をし、それに尾ひれが付き家を追われました。今は一人暮らしをしています。年末に仲直りをしようと歩み寄ろうとしました。向こうも歩み寄る気配はありましたがすぐに後音沙汰はなくなりました。悲しくなりながらも月日が経ちました。
昨日のことです。
私は車にはねられ救急搬送されました。
朦朧とする意識の中で『娘が事故にあったんだから、さすがに家族は心配して来てくれる、いいきっかけだ』と思いした。救急隊の人が父に電話を掛けてくれました。「娘さんを救急搬送してます、来て頂けますか」帰ってきた答えは「勘当してるので、拒否します」
一通りの診断などが終わり、一人で日常生活を送るのは難しいという事で看護師さんが今度は母に電話をしました。「娘さんは骨が折れてます。とてもつらそうです」帰って来た答えは先程の父と同じ、そして向こうから電話を切られてしまう始末。20も後半になるというのに人前で泣き崩れました。
一人暮らしで頼れる人もおらず、親にも見捨てられ、身体も自由に動かず、お金もなく、この半年の間に色んな不幸に苛まれ、生きる事の価値が分からなくなりました。不幸の後にはいい事があるよ、生きてればいいことあるよ、と慰めの言葉を貰いますがここまで来ると素直に受け止める事ができません。
死にたい、とは思いますが臆病なので自ら命を絶つ事ができません。ですが、この生を全うする原動力も気力も何もありません。この不幸の中には理由があるのでしょうか?この不幸の中どうやって、これから生きていけばよいでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
幸・不幸は人の心が決めている
吉(幸)凶(不幸)は物事にあらず人にあり。人の心にあり。
幸・不幸は物事ににあるのではなく、人の心が物事に対し幸・不幸の価値づけをしているのみです。「生きていれば良い事もある」というのは不正確で、「生きていれば常に物事に価値づけをする私がいる」ということになります。
トラブルつづきで心身ともに疲弊されておられますね。また、この度の事故は大変な目に遭いましたね。お見舞い申し上げます。
苦しい時ほど支えて欲しいのは家族であり、実際にあなたも以前はその家族に支えられ楽しい日々を過ごしていたとのこと、誠に素敵な思い出であるなあと聞かせていただきました。
その家族の存在が幸せにもなれば、不幸にもなるというのはまさに「吉(幸)凶(不幸)は物事にあらず人の心にあり」であります。
自分の都合に会う時は歓迎し、都合に合わない時は排除したいというのが人の愚かな悲しい心であります。
もちろん誰か一人がそういう心をもっているのではなく皆がそうなのですからお互い様です。そしてこじれると修復は難しいということでもあります。
支えであったご家族があなたを勘当までし、今回の事故においても突き放す対応を貫くのですから、どうも先のトラブルにおいてあなたとご家族の間に認識の差があるのではないでしょうか。
あなたにとっては「些細な事」であってもご家族にとってはそうではなかったのかもしれません。
もちろん詳しい事情も知らないのにどちらが悪いなどということは申せません。ただ、どうもすれ違いがあるのは間違いない様に感じます。
物事には原因があります。不幸続きなのには理由があるのか?と問われると、「ある物事の原因が整ってその物事が生じている。そしてその物事はあなたが不幸だと価値判断する内容のものであることがここのところ続いている。」ということになろうかと思います。
物事の原因は自分の力だけではどうにもならないことも多いです。この度の事故も不可抗力だったのかもしれません。
しかしご家族とのトラブルはいかがでしょうか。もしお互いに歩み寄るために必要な原因をあなたの歩みでも整えられるなら、プライドなどを差し置いてそこから始めないとあなたの価値観で幸せと思える結果にも繋がりにくいのではないでしょうか。
質問者からのお礼
解答ありがとうございます。
価値づけ、なるほどと思いました。
そう思う事で気持ちが軽くなった気がします。
家族とも、歩み寄りができるよう、色々とまた考えてみたいと思います。