親切の仕方がわかりません
人には親切にしたいと思って生きています。しかし、上手なやり方がわかりません。
先日、落ち込んでいた同僚に飲み物を差し入れ「お疲れ様、あまり溜め込まないでね」と声を掛けたところ、飲み物自体は受け取ってその場で飲んでくれたのですが、自分なんかのためにわざわざお金を出してこんなもの買わなくてよかったのに、と言われてしまいました。
そして翌日、職場の先輩が私について、腹の中で何を考えているか分からない、清廉潔白でもないくせにいい子ぶっていて気持ち悪い、あまり信用しない方がいいなどと上記の同僚に話しているのを聞いてしまい、それに頷く彼女を見て、おおきなショックを受けたのです。
気持ち悪いとまで言われたのは初めてですが、これまでにも他意なくおこなったつもりの親切(と呼ぶほどでもない些細なことでしたが)を不審がられたり、ベビーカーや荷物を運ぶ手伝いなどを偽善と叩かれたりと、よかれと思ってしたことを、他人に非難されることがよくありました。
募金やボランティアのようなものであれば、たとえ叩かれても正しいとわかっているため揺らぐことはないのですが、個人間のことについては、正解が用意されていない分、難しいと感じます。
私のやり方が間違っているのではないか、ただの迷惑に過ぎないのではないかと、近頃ずっと不安なのです。
他人の負担にならない親切、下心を疑われない親切とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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100点満点はありません
先輩と同僚のやり取り、ショックでしたね。
なにか、自分が置いてきぼりになったというか。
もしかすれば、先輩はいちさんに嫉妬して発言したかも知れませんし、同僚も先輩に反論できず、ただ頷いていただけかも知れません。
また、飲み物の件でも、同僚のシャイな部分を私は感じます。
しかしすべては憶測、どうであろうがショックには変わりありません。
私が思うに、同僚に対する気遣いもそうですが、ベビーカーや思い荷物を持つ手助けをされた事、素敵な行為ではないですか。
例え誰かに偽善と思われようが、当人が救われたと思われているなら、堂々としてていいのです。
自分がしたくても行動に移せない事を誰かが行えば、多かれ少なかれ妬まれます。
個人間の親切とのことですが、100点満点などないと私は思います。
同じことをして、誰かには通じても、別の人には通じない事などいくらでもありますので。
「親切=感謝される」ではなく「親切=与える」ではないでしょうか。
与える在り方は孤独です。
見かえりはありませんし、嫉妬も受けます。
相手の反応より、自分がどう行動をとればいいのか。
そのような想いで人と関わってください。
ベビーカーの手助けなど、まさにその通りです。
いちさんはできる。
そう私は感じます。
質問者からのお礼
海老原 学善さま
与える在り方は孤独……確かに、おっしゃるとおりかもしれません。はじめから孤独な道と心得ていれば、幾分楽なようにも感じますね。
わたしはわたしのままで、いいと感じたことをすればいいのだと、胸を張って生きていこうと思います。ありがとうございました。