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人間の縁について

回答数回答 1
有り難し有り難し 9

つい最近まで仲よかったのに
急に冷たくされ悪口を言われたり
嫌がらせを受けたりと辛い思いをしました。
自分が相手に不快な思いをさせたのかもしれませんが、鈍感な人間なので
言われないと原因わからないから言ってほしかったなと思います。

人と人を繋ぐ縁が切れてしまったことは残念ですが、やはり人との縁は脆いものなのでしょうか?

縁とはなんだろうとすごく考えても答え出てこないのでお考えをお聞かせください。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

関わろうとするかどうか

そういう場合に無理して縁という言葉を使わなくてもいいんじゃないでしょうか。
縁とは抽象的な言葉です。なんでも「これも縁」というカタチで片づけられてしまいます。
そんな風にあやふやにするより、あなたが何故そのようにされたのか。
あなたとその人とのかかわりのあり方に何らかのズレ、問題が生じたのでしょう。
そこを問題視するべきではないでしょうか。
縁とは、働きかけという意味にもなります。
あなたが何も縁という働きかけを加えなければ関係も変わりません。
文字通り縁が無かった、こととして扱われてしまいます。
縁は、今から生み出すべきことです。
それによって、結果も変わっていくのですから。
縁は結果を変える働きかけと為すべきものであって、縁がなかった、とエンドにするべきものではありません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます!
縁というものは自分が思っているものとは違う考えがあることがわかり勉強になりました。

揉めた→縁が切れたではなく
なぜこうなったのかということが大事なことなのかもしれませんね。

縁がつながるのいうのは自分が自然に感じたことかもしれませんね。
縁についてまた改めて考えていこうと思います。

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