信じる、なんて、できますか?
わたしはずーっと信じていたことがあります。
それは、いつか必ず母が、助けてくれるだろう。
ということです。
こんな地獄から、いつかきっとお母さんが助けてくれる、救ってくれる。そうしてくれるに決まってる。
それだけを支えに、父の極悪非道な暴力から耐えていたのです。だってお母さんはいつもお父さんの悪口を言っていたし、人間として最悪だと教えこまれたんですから。そんな人間からは守ってくれるでしょ。お母さん、でしょ。だから。ずっとずうううっと信じてたんです。
わたしと弟を連れて逃げてくれると幼い頃から信じていたから、わたしは弟の救いの道を絶たないように、警察にも児童相談所にも行かなかったのです。わたしが外にバラしてしまったら、もし弟がそれを望んでなかったら、弟の人生を壊してしまう。それはいけないから。
それがフタを開けてみればなんです?
母親はハナから逃げる気なんてなかったのです。離婚したい、あんなのは人間じゃない、そう言っときながら、わたしたちを父のエサにして、自分の安全さえ守られていればよかったのです。
勇気を振り絞って
「どうして庇ってくれなかったの?」と聞いたら
「そんなことしたらお母さんまで殴られるじゃないの!」と叫ばれました。嗚呼、そういうことだったのか。信じてきたものが、すべて、すべて崩れました。
「あんたが離婚したくないって言ったからしなかったんでしょ!」
「違います。庇ったらもっと暴力が酷くなったから庇わなかったんです」
もう助けてもらえないんだと気付くのが遅すぎた。気付くのに時間がかかりすぎた。それを受け止めて、そこから出るには24年かかった。
「いつか、助けてくれると思ってた」と打ち明けたら
「はあ?助けてもらえるって信じてたの?その年になって?」と。
ずーっと信じてたのに、助けるどころか、いつまでも家にいさせて都合の良い矛先でいればいいと思われてただなんて。
私は弟を「お母さんと3人で生きよう?」とマンションのドアの外の階段で慰めました。
守られなかった。守る価値もなかった人間なんだって思うじゃん。自分は使い捨てみたいに使われる存在なんだっていわれてるみたいじゃん。あなたは尊いなんて言われたって、こんな扱いされてきたのに信じられるわけないじゃん。
母親に命預けて、こんな裏切られ方をしたら、もうヒトなんか信じられますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私が信じるのでなく、私を信じる存在を仏様と呼ぶ
子は親に「親という存在」であることを望みます。その時の「親」とはやはり信じられる存在でしょう。その時の「信じる」とは私の思い・期待通りにしてくれるというちっぽけな信ではなくて、たとえ私の思いや期待とは違ったとしても、私の思いや期待を超えて最後には私を守ってくれるという「安心感」でしょうか。ひろさんが言うところの「助けてくれる」という感覚でしょう。
だから信じ、委ね、まかせられる。
しかし子もやがて成長しいつの日か親を超えるか並ぶ時に気がつくのです、「親という存在」がいたのではなく、「一人の不完全な人間」が「親」として努めていてくれたことを。
それは信じるという感覚を「親という存在」から学んだあとの出来事であるのが多くの場合かもしれません。
ひろさんの場合はあまりにも早く親も「一人の不完全な人間」である事実を突きつけられてしまったのかもしれませんね。
だからまだ心の中・頭の中ではそうした「親という存在」を求めている。でも目の前の実際の親は「一人の不完全な人間」である…。
以前の問答で親に対し手紙を書きたいと、心理学で言うところの「対決」をしたいとおっしゃっていましたね。
ひろさんは目の前の実際の親と向き合ってご自身の心に整理をつけていくというより、ひろさんの心の中・頭の中の親と「対決」し、そして「決別」することで目の前の実際の親が「一人の不完全な人間」であることを受容できるのかもしれません。もちろん私は心理学の専門家ではないのでそういうことは言い切れないのですが。
お母様は虐待の加担者であり同時に虐待の被害者でもあった。父親がひろさんたちを虐待する姿を見て自身も怯えていた。自分に矛先が向かないようにと。これは父親からお母様への心理的虐待です。
だからといってお母様がひろさんたちを守らなかったという態度が肯定されるわけではありません。
しかし、肯定否定・いい悪いという評価を超えて一人の人間の悲しい事実として実際のお母様の姿を見ることが出来る時、ひろさんはひろさんのご縁を受け止め直すことができるのかもしれません。
仏教では人間が何かを信じる心というのは危ういと見ます。その信は人間の都合だからです。
ではなぜ「あなたは尊い」などと説くかと言えば「あなたは尊い」と信じられているからです。信じられるからこそ安心してこちらも信じられます。そういう世界があるのです。
拝読させて頂きました。あなたが今までの人生をいかにご両親からいじめられて辛い思いをなさってこられたかを読ませて頂きました。今まで本当に辛かったことでしょう、そしてさびしく苦しかったことでしょう。そのような状況で生きていらしたならばあなたがおっしゃるように人を信じることなどできないと思うのは当然ですよね。あなたのお気持ちを心よりお察し申し上げます。
ご両親を恨み憎しみ殺してやりたいと思うことも当然おこるでしょうね。ひどいことをされた相手にそんな感情を持つことはあります。
どうかその思いを抱えこまずにこの場所にて吐き出して下さいね。この場所はあなたに安全な場所です。あなたのありのままの思いを素直におっしゃって下さい。今私達に出来ることはあなたのお気持ちを伺うことかと思っています。
あなたにとって私達僧侶が信じるに値するものかどうかはわかりませんけれど、あなたのありのままの思いを出来るだけ伺いたいと思います。
そしてもしもあなたにお伝え出来ることがあるならば、あなたがこれから生きていく為に必要なことをお伝え出来るならば、少しでも進んでお伝えし、少しでもあなたのサポートになればと心より思います。
今まで沢山の苦難があなたの前に立ちはだかりあなたを苦しめてきたことでしょう、ですがあなたは決して孤独ではありません。あなたは今私達ともつながりを持っています。そしてこれから沢山の方々との出会いが訪れてつながりを持っていくことでしょう。
もしも出来るならば悪縁をしっかりと断ち切り、あなたを支え励まし共にお互いを尊重しあい助け合いながら生きていかれる良縁とつながっていって頂きたいと心から思います。
又人を傷つけ満足するような愚かな者からは離れて頂き、そして温かく養いあえる方々とのご縁を結んでいって頂きたいと心から思います。
あなたがこれからの人生の中で素晴らしい出会いの中で共にお互いを理解し認め合いながら信頼できる方々と一緒に心からお健やかに安心して生きていかれますようにと切に願い祈っております。
どうかあなたのお気持ちをお聞かせ下さいね。
あなたをいつも待っています。
質問者からのお礼
本当にお久しぶりです。生きてます。お言葉ありがとうございました。毎回、私の命を、繋ぎ止めます。ありがとうございます。私は信じられているんですね。私は自分を信じることができない。それでもいいんですね。仏様に信じられているから。私は信じられているんですね。