人からの評価を欲しがる心を捨てたい
小・中学生の頃から自分を見て欲しくて頑張るけど、心は満たされないです。
誰かの何気ないコメントを見ればこれは自分のことを悪く言ってるのではないかと被害妄想をし、誘えば乗ってくれるけど誰からも遊びの誘いを受けないなとか、人との関わりのことをばかり思いや悩んでいる人生になってしまっています。
自分はそんなに周りの人に興味を持たれているわけでもないと
よく思われても悪く思われても自分はよく思ってればいいと
言い聞かせていても肯定されたい執着を捨てられないです。
子供も産まれて見返りを求めない愛情を注ぐ相手もいるのに、どうしてか自分のことを見て欲しい、肯定して欲しい、頑張ってるねちゃんと見てるよと言って欲しいと、要求が大きくなってしまうのです。
では自分はそれに見合うだけ誰かに与えられているかとおもうと、自分が思っているだけかもしれないとおもうと虚しくて。
このようなことで動揺して苦しむのをやめたいんです。いろいろ本も読んだんですけど、、どうしてもダメなんです。
どう、考えていけばいいやら、お導きくださいませんか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
気付いたことが素晴らしい
欲・怒り・怠け・プライド(慢)などの煩悩は、悩み苦しみの原因になりますね。
しかし、慢という煩悩、プライドの煩悩は、誰にでもあります。
まずは、それが煩悩だと気づくことが大事です。
あなたは、ご自身の煩悩に客観的に気付いていらっしゃる。
それは素晴らしいことです。
仏教では、そもそも「自分」という存在はただの概念にすぎないと考えます。
たとえば、人間の身体の細胞は代謝し、物質とエネルギーが常に出入りして入れ替わっています。
今日の阪神タイガースと20年前の阪神タイガースの構成選手が別人達である(ただチーム名が同じだけで実際は別人)ように、
昨日のあなたと今日のあなたは別の物体なのです。
昨日のあなたが世間に何と思われても、実は昨日のあなたはもういない、今日のあなたは今日初めて宇宙に登場した新しいあなた、ただ記憶データを相続しているだけ。
一瞬一瞬ごとに浮かんでは消え、変化していく現象の連続が、あなたです。
プライドの煩悩は、20年前のタイガースと今日のタイガースを同一人物だと勘違いすることから生じます。
「ちょっとまてよ、昨日は昨日、今日は今日の私だよ」と冷静になる癖をつけましょう。
あとは、ご家族はあなたを愛してくれてませんか?
一緒にいてくれる人がいるなら、「あなた」は人間として評価されていると思います。
質問者からのお礼
ご回答、ありがとうございます。
昨日の自分はもういなくて、記憶を引き継いだ今日だけの自分という考え方はとても新しい考え方に感じました。
今日生まれたばかりの自分を一生懸命頑張って見ることにします。今日しかないんだと思うと、やることはたくさんあり人との関係に悩んでる場合ではないという気持ちにもなります。
家族は、夫も、両親も義家族も良くしてくれています。子供も顔を合わせれば笑ってくれます。それで、充分なのかもしれません。
友人関係、職場の人間関係、全部を望んでしまう欲にまみれていたかもしれません。どうもありがとうございました。