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偏食はなおりますか?

回答数回答 3
有り難し有り難し 30

私は偏食が酷く、野菜嫌いです。

親や教師によく叱られたり、居残りさせられたりしたけど無駄でした。
嫌いなものを食べるくらいなら、1日何も食べないで平気なくらいです。

でも、私は病気持ちで食事制限されたこともあるので治したいです。

お坊さんは好き嫌いとかないんですか?
修学旅行で寺に行った時、「食べられないなら手をつけるな」って言われたんですが、触らなかったら残してもいいって考えなんですか?

ちなみに、食べられる野菜も何種類かありますが味付け、調理法で食べられなかったりします。ドレッシングやマヨネーズが嫌いなのでサラダは食べたことがありません。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無理せずじっくりといきましょう

拝読いたしました。

偏食がひどく、野菜が苦手とのことですが・・・
今までの人生、普通の人よりも大変苦労されましたね。

それが、とても辛いしストレスだから治したい。
お気持ちは理解できます。

しかし、食べれないものを、食べれるようになるのは至難の業。
そこにあなたの苦しみがあるのです。

確かに、食べれるようにならなければ弊害が出ます。
ですが無理に食べてもこれまた、心に負担がかかり、ふがいない自分に涙します。

調理しだいでは、食べれる野菜があるなら充分。
生まれてから一度も野菜を食べず、成長した人もいるのです。

あなたは今まで「偏食は悪い事だ」と大人たちに刷り込まれてきたのでしょう。
辛かったですね。
無理な事を訴えたかったでしょう。
しかし、親御様や教師も人間ですので、間違いはあります。

「食べられないものは手をつけるな」
これは、仏さまからいただいた命をそまつにするなという事です。
寺でもどこでもです。

箸をつけるというのは、自分の責任で食べますという意志。
手をつけず残せば、私の代わりにお願いしますという意味です。
残すことを許されたのではありません。

食べられなければ、最初から頼まないようにします。
コースや懐石なら、事前にメニューを把握し、あらかじめ伝えておく努力をして下さい。

偏食が酷いのは、あなたのせいだけではありません。
これでは、生きるのが息苦しいですね。

ですので、治すよりこともまず・・・
いろんな工夫をしながら、自分に付き合ってあげて下さい。

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有り難し
おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

考えで食べない

うちの母ちゃんは境内で住職が飼ってた80匹を超えるニワトリのタタリのせいか、ニワトリの霊が取りついてか?どういう訳か鶏肉が食べられません。(笑)
ここでいうタタリとか霊とはギャグですが、🐓ニワトリが食べられないという割には「豆腐厨房」の豆腐ハンバーグは食べられるのです。
その豆腐ハンバーグには若干鶏肉が入っているのでした。
加工されたり、それ感を感じなければ大丈夫ということはあるものです。
知らぬが仏と言いましょうか。
細かくしたり形が露骨でなかったらあなたも食べられるもんですよ。
私もはじめて鳥のアシ=モミジを食べたときはキモモになりましたが、鳥系のラーメンには大体スープにモミジが使われているものです。
考え・思考・思いこみ・先入観・思ったことばかりが脳内で優先されていると実際のものよりも自分の思ったことを優先的に扱おうとするものです。
そういうモノを捨てて実物に学びましょう。
美術館などの芸術作品を観る時に先に情報から入る人は無粋・ヤボというものです。
食べログや情報などを優先していると情報を食べるようになります。
実物で人間は真実に出会います。
それが真実のご開帳というものです。
真実のご開帳の前に頭で考えた者ばかり相手にしている自分に気づきましょう。
五感に触れるものは事実・実物・脳内情報なしのダイレクトです。
情報は捨てて、実物に触れるようにしましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

少しずつ好き嫌いをなくしました

記憶が定かではありませんが、イチロー選手はかなりの偏食家であったと思います。偏食が多いから人間としてダメという考えがおありでしたら、まずそれは捨ててよい迷信です。

そのうえで食べた方がよいと考えられるものが食べられないのを克服するやり方は、少しずつ食べられるようになることではないでしょうか。そんなに急には治らないから少しずつ時間をかけて食べられないものを食べられるように、私はしてきました。

私は滋賀県に住んでいます。海なし県なので昔から川魚のお刺身を食べる地域でした。私はコイの刺身が苦手でした。法事の際、かならず出てくるので泣きそうになりました。しかし、寒い時期に食べた際、美味しいと感じるようになり、その後は食べられるようになりました。「やればできる」面はたしかにあります。

また、人間、食べることはかなり大きな楽しみで生き甲斐でもあるはずです。偏食が多いことでその楽しみの幅が狭くなるのは、それだけ人生から得られる楽しみの幅を狭めることにもなります。上記のようにして克服した苦手な食べ物が好きになるとそれだけ人生の幅が広がるのですから、偏食は少ない方がよい面はたしかにあります。

だけど、無理する必要もないはずです。野菜にドレッシングやマヨネーズをかけなければならないという法律はありません。そのままなら食べられるのなら何の問題もないのです。実体のない常識にとらわれ、その実体のない常識に苦しめられるのはお釈迦さまの教えと反します。

リーズナブルな偏食なら一向にかまわないし、食べた方がよいものが食べられないのは少しずつ焦らずに食べられるようにしたらよいのではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ