毎日むなしいです。どうしましょう
一年前から父と二人暮らしを始めたのですが、とにかく父が嫌いなので家にいても疲れます。眠っても良くない夢を見ます。父が仕事の間、老犬の介護をしているので、離れて暮らすことはまだしばらくは無理です(恐らく私は犬の介護のために引き取られたのでしょう)。
浪人生なので、日中は図書館などに行きたいのですが、目を離すと犬が家を汚すので実質引きこもりです。焦りと劣等感がいつの間にか怒りになって、辛くて眠ってしまいます。眠りすぎだと怒られます。
過食嘔吐や潔癖が酷くなり、情け無さすぎて言葉がありません。馬鹿馬鹿しいとすら思っています。
家が自分の家ではないみたいで、寄る辺ない気分が一日中続きます。緊張感が絶えず非常に疲れます。最近は家にいるのが苦痛で、どこか遠くに行きたいと思ってしまいます。とにかく「ここではないどこか」です。でも、ここにないならどこにもないのでしょうね。そういう考えのときはとても空しいです。
友人に話すと自殺前のサラリーマンみたいだと言われました。なるほどなと思います。自殺の意思はありませんが、納得したので段ボールを買って部屋の片付けを始めました。
どうすれば良いのかわかりません。「ここではないどこか」を探す若者が物理的な旅行をすることもあるようですが、私はそうしたいとは思いません。どちらかと言えば、どこでも良いならここでも良い、という感覚が欲しいです。
嫌だろうがなんだろうが、今いるまさしくここだけが私の居場所で、嫌ならば明日どうにかすればいいのです。今はここにいる。私は今ここにいるという実感が欲しいのです。どうすれば良いのかわかりません。
まとまりのない文章で申し訳ありません。単に睡眠の質が悪く疲れているだけかも知れませんが、一度こういったところに投稿してみたいと思ったので...。
いつも人の目を気にしてしまう。人の意見や善悪、正誤が気になりすぎて、見栄を張ったり引っ込み思案になる。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ここは変化します。目の前にあることを・・
拝読いたしました。
むらさきさんの相談文を読んでいて自然に「う~ん」とうなり声をあげていました。
私は、寺に生まれ、寺で育ち住職になり「ここ」にいましたが、子供の頃から「ここではないどこか」を探していたのだと思います。
虚しい事です。
「俺の居場所」はこの寺ではなかったのだと思います。
むらさきさんの言葉で・・・
40を越えようやく「ここ」が「どこか」になりつつあるんだなと気付かされました。
不思議です。
私が今座りながらパソコンをたたいている場所は、前と変わらず同じ場所なのに「どこか」になりつつあるのです。
私は”自分探しの旅””に”出かけた派ですが、人との出会いを通し「どこか」は旅先にあると感じたものの、それはその瞬間のものです。
「どこか」は、探そうとしても見つかりません。
今できる事をこなし、そしてその後の生き方により「どこか」にたどり着けるのだと思います。
それが、自ら見つけただろう場所であったとしても、それはあなたの意志ではなく、仏さまに導かれた「どこか」
かといって、お寺や神社に神頼みという、そんな解決法ではありません。
今、目の前にあること。
あなたの場合、勉強とわんこのお世話です。
それに、意識を向けて下さい。
幸せを求めて行動しても、幸せにはなれません。
どんな壁にぶつかっても、今の事をしっかりとこなせる人こそが、将来幸福を得ます。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
やはり「どこか探し」「自分探し」は多くの人が経験するものですね。
「ここ」を「どこか」にするためには、目の前のことに身を入れて取り組むことが必要なのですね。
私の意思ではなく、仏様に導かれてたどり着く。
あるものがあるように、私も行くべき場所に行くのでしょうか。
今あることを大切に、
すみません、途中で送信してしまいました...。
今あることを大切に、しっかりとこなしていきたいです。
ありがとうございました。