回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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霊とは内なる働き
生霊とはあなたと他者との良好ならざる人間関係。
怨まれたり、嫌われたり、あなたが相手を嫌ったり、機嫌が悪くなったりすることがあるでしょう。
それを生霊というのですよ。
幽霊とはあなたの心に憑りついた負の思い、憂い、苦しみ、哀しみ…
すでに取りつかれているでしょう?
そういう不安な思いをこそ幽霊と言わずして他のどこにあるのでしょうか?
厄年とは古来の人間たちの感性から見出された、男女その年その年の体力気力の衰えの節目。
その気力の衰えや乱れ故に、不運が生じやすくなる。
だから、お寺でご祈祷してもらって、先祖や神仏の存在や働き、あなたとのかかわりを感じ、乱れを無くすのです。
二つのことをお尋ねですが
幽霊等は仏教では餓鬼道の一種と考えますので、存在することになります。六道とか五道とかを輪廻するという考え方がありますので、詳しいことはそれらをお調べください。
厄年という考えは仏教ではとりません。前厄と後厄を含めた三年間に何か悪いことがあれば、「あぁ、やっぱり」となりますが、それは後出しじゃんけんみたいなものです。意味はありません。
ところで、まったく関係ない話ですが、私と一緒に研究発表をしたことがあるデヴィッド・キヨシ・アベという研究者がいます。彼は彼の生地であるハワイ、コナ地方のコーヒー・ベルトを主なフィールドにしている文化人類学者です。彼によると、この地方を含め、ハワイの日系人はよく四十二歳の厄年にあたる人が盛大なパーティーを行うそうです。厄払いは神道の行事ですが、戦時期に米政府により神社が破壊されたため、お寺で厄払いのパーティーを行うのだそうです。面白いには、厄払いのパーティーは一世の時期からずっと行われていたのではなく、いつ頃か知らないうちに定着化した行事であることです。
アベによると、厄払いを出汁にしてみんなで楽しむ、ということのようです。厄年については、あまり深く考えず習俗として楽しまれては如何でしょう。
そこにとらわれるあなたの思い
全てそうしたことは、生きている人間の捉われている姿なのでしょう。
幽霊も、生きている人の煩悩に振り回される姿そのもの。餓鬼道に落ちている姿でしょう。
厄年というのも、そうしたものを気にするひとがご祈祷などによりスッキリと立ち直ることができれば、ということにすぎないでしょう。
何も無くて当たり前。しかし…
心配なら念の為にお寺で厄祓いをなさることをオススメします。
あると思えばある、ないと思えばない。
ということではありません。
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何も無くて当たり前。しかし万が一厄神(疫病神)が来たら困るね、だったら厄祓いはしておく方が安心だねという話です。
質問者からのお礼
ありがとうございます
幽霊を見た人とかを聞くと、病んでるのかな?と思ってました。餓鬼が幽霊の正体とは(T_T)
有難いお言葉です