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罪を背負って生きる人生何をすればいいの

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有り難し有り難し 31

新卒で入った会社を1年で辞めました。
初めての彼氏との子を中絶し、別れました。

昨年末から今にかけてこのようなことが続きました。今の私には、生きる能動的な理由がありません。

会社は、職場環境と人間関係のストレスで拒食症と鬱状態になって辞めました。仕事も満足に覚えられず、最悪だったと思います。

彼とは結婚を前提に昨年秋頃から付き合っていました。しかし彼の家が立派過ぎて、向こうのご家族からも上手くいくか疑問視されていたこともあり、不安でした。
前会社で失敗したので、彼の家の家業を手伝う自信がなかったこともあります。
人間関係が上手くいっていない状況で、さらに介護も期待されていました。
春になって彼も私も定職についていない状況も不安でした。
彼とは、遠距離だったこと、彼の生活が多忙であったこともあり、あまり相談出来ませんでした。
結婚しても幸せに生きていけない、一人では育てられない状況を悲観して、初期で中絶しました。

この先ひとり孤独に耐えながら、殺した子をおもって生きるしかないと思っています。
終身刑だから生きていて希望も何もなく、生命を維持する以外に何もありません。

毎日朝起きて、食パン一枚と牛乳を飲んで、契約の仕事に行って帰って、おにぎり食べて、体洗って、後悔しながら寝るだけです。

私は何ならしても許されるのでしょうか?
人生で何をするべきなのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「私」のルールをやろうとしないことです。

あなたの今考えておられるあなた独自のルールや考えが既に「わたし」「わたくし」されたものであることにお気づきでしょうか。
「わたしはダメな人間なんだ」「いきてちゃだめなんだ」とか暗いことを考え始めておられる箇所は人類75億の中であなたのアタマの中だけです。あなたは世界にたったに1人、宇宙にたった1人、誰とも比較も替えもできない絶対的な存在です。
ただ頭がフリーズしてしまっている。
それは度重なる不運や「あなたの願っていた理想人生プラン」が滅してしまったが為です。
幻滅というものには二種あります。
一つは相手や出来事、人生の本当の姿を知って、ガッカリして目が覚めること。
もう一つは「自分流の思い方から救われること」です。これはむしろ救いなのです。
残念ながら人生は自分が思い描いているビジョン通りにはいきません。
それは自分が思ったこと、自分が思い描いたこと、自分の願ったことをやっている「わたくし」ワールドなのです。
人はいつのまにかこの「わたくし」ワールドの住人になります。
本当は天気だって経済だって社会情勢だって「わたし」達の思い描いているものとは全く異なる動きをしています。
実は今思い描いておられることも本当はいち早く幻滅するべき自分一人だけが思い描いている妄想「顛倒夢想」というべきものです。
人生を苦しめるのは人や出来事、相手というよりも本当はそれらに対する自分自身の考え方・思い方であるものではないでしょうか。
そこから自由になる生き方をこそしなければいけません。
あなたの今後のより良い人生のためにもこの自分自身が自分自身を苦しめるという負のサイクルから抜け出(解脱)する必要があると思います。
ものを見て、それ以上のことを思うこと。
ありもしないことを思うこと。これを輪廻という。顛倒夢想という。
事実とは違うことを事実に対して思い描くこと。これが妄想なのである。
妄想から救われるには、まず自分が妄想をしているということを自覚なされて、妄想にデコレーションされる前のありのままの~♪事実をみつめるべく心を思考ワールドから事実ワールドに向かわせるべきです。
あなたが恐れている現実は本当は現実ではありません。妄想・想念なのです。事前にこうに違いないと思い込んでしまっているだけなのです。
自己の想念から自由になられますように。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

悔い改めれば罪なし

大丈夫です。
お釈迦様は、如何なる罪深いものをも憐れまれ、全ての人が極楽に入れる広大な御慈悲の門を開いて於いてくださいました。それは私の宗派の経典「修証義」(http://sugano.us/butu/syu-0.htm) 第2章懺悔滅罪です。そして、3章授戒入位 第4章 発願利生 第5章 行事報恩とお釈迦様が示された幸せになる過程が述べられています。教えを実践するか、否かはあなた様の心次第です。
むさぼり、いかり、無知が原因と自覚し、罪を悔い改め、仏の教えを生活に取り入れ、世の為、人の為になる行いを実践し、徳のある人間として成長され、幸せになります様祈願します。

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有り難し
おきもち

サラリーマンでしたが、第二の人生は、在家から出家得度し僧侶に転進。現在、ブッダのことば「サイの角の如くただ一人で歩め」の教えと、ヒンズー教の四住期の林住期を実践中。Na市が此の世。Ni市が彼の世の人生です。 僧侶になったのは、団塊の世代が仏教の四苦八苦の老齢化を迎えた時、心の悩みが多くなると想像し、仏教が悩み解消手段になると判断したからです。 74才を迎え、波乱万丈の人生経験を積んできましたので、多様な質問に回答が可能です。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。

事実を見るのが辛いです。
感情の行き場が無いです。だから妄想して慰める他ありませんでした。

けれども代わりに事実を見てくれる人もいないから、自分で見るしかないですね。

ありがとうございました。

これから先の長い人生が嫌になってました。時間があるからこそ、お釈迦様の教えを学んでみます。

ありがとうございました。

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