他力が足りない
過去、現在含め、周囲に足腰の弱った人が二人います。
一人はトイレに駆け込む前に排泄物を漏らし、もう一人は玄関で倒れて咄嗟に助けを呼んで助かりました。その時、二人とも同じことを言いました。
「なんで、こんな風になってしまったんだろう…」と。
二人はきっと、この時まで「自分のことは努力次第で、ある程度管理できる」と思っていたんだと思います。だけど、出来ない(出来なくなってきた)と強烈に感じて、ショックを受けたんだろうと思います。
健康は人がコントロール出来ないと実感し易い、最たるものだと思いますが、二人は咄嗟には納得出来なくて「何故?どうして?」と怒りと不満と絶望を感じたようでした。
その時、何となく閃くものがありました。
人間も含め、すべてのものは環境によって生かされていて、自らコントロール出来るものは実は何一つないのではないか、と。もちろん、生きるために嫌でも努力は必要ですが、それ以前に環境が整わなければ望み通りになることはない。それが当たり前の事実なのかな、と。
前置きが長くなってしまいましたが、その時、頭に閃いた文字が「他力」でした。私は宗教には不案内ですが、その言葉はぼんやりと知っていました。この生かされているという事実を「他力」というのでしょうか。でも、私はそれを有難いとは思いません。事実に有難いも有り難くないも、善悪も、良し悪しもないように思えます。
他力とは、有難いとは何でしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「他力」というのは、 阿弥陀如来の本願力(願い)のこと。
「他力」というのは、
阿弥陀如来の本願力(願い)のことなんですよ。一切衆生(生きとし生けるもの)を救いたいという願いのこと。
ところで、
なんで、こんな風になってしまったんだろう、と高齢者はおっしゃいますね。
情けないなぁって。
私が出会う方々も、私に弱音をおっしゃる。
うん。。。老いの苦しみですね。
きっと、あなたも、私も、同じ年齢になると、口にするでしょうね。分かっていても、今まで出来ていたことが、出来なくなってくる。
老いを受け入れていくということは、簡単ではないのですよ。
ただね、そんなの、みんなそうよ、当たり前よ、仕方ないよ、って分かっていることを言ってしまったら〜。
やっぱり寂しいよね。誰かに、今の想いを分かってもらいたい。死の不安が、そう 口にさせるのです。誰だって、不安でたまらないもの。
びっくりしたね、もう大丈夫だよ、って声をかけてあげられたらいいね。
何一つ、思い通りにならない世の中で、不安に苦しみながら生きている。
だから、仏さまが 私たちを救いたい!と願ってくださる。
そう願ってくださるのだから、その願いに、この身をまかせながら、支えられながら、生きていく。生きていけるのですよ。いろんなことが、ありながらもね。
こんな私を、見離すことなく、いつでも願ってくださっている。
阿弥陀如来の他力の働きは、本当に優しく 心強く、有難いものだなぁ、と。
だから、私は、手を合わせ、念仏させていただくのです。
なもあみだぶつ と。
あなたは、人生の先輩から、何を学び、何を想いながら、生きていますか。
宗教は、あなたに、いのち を、問うていますよ。
「他力」をどう定義するかによりますが
お気づきになり、ここでお話しいただいた内容はおっしゃる通りだと思います。
「他力」とは浄土真宗というカテゴリ内で語るならば中田師のおっしゃる通り阿弥陀如来の本願力を指します。
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は
「他力というは、如来の本願力なり」 親鸞『教行信証』
とはっきりおっしゃっていますので。なので世間一般的に認知される「他力本願」=「他人の力をあてにする」という理解は浄土真宗的に言えば誤りとなるところです。
しかし、ここではあなたの言う通り浄土真宗というカテゴリを超えて「他力」を「自分の思う通りにならないもの」「環境が整う事」「自分の力以外の諸条件の成立」というように定義するならば、一切の物事はみな他力であります。
お釈迦様の教えに「一切皆苦」とありますが、「苦」とは「思い通りにならない」という意ですからこれも同じような内容となりますね。
そうするならば「有難い」とは「自分の力だけではどうしようもない環境がはからずもたまたまととのってくれたという事実に目が向くこと」でしょう。
目の前の事実は当然ではなく、奇跡的なものであると、目に見えない背景の諸条件にまで思いが至った受け取り方です。
けして「たまたま自分の都合のあうようになったぜ!ラッキー♪」ということだけが「有難い」のでなく、自分の都合に合おうが合うまいが、目の前の事象の成立全てはそう有ることが難しい有難いものであり、「他力」によるものですね。
頭だけで考えた事でなく、生活という生きる事実の中から閃き、お気づきになったこの「他力」や「有難い」という事実はあなに深い頷きを与えた事でしょう。
それは私の頷き(納得)があろうとあるまいと、それ以前にこの世界は「他力」で成り立っているという事実への目覚めです。
おっしゃるとおり、その事実に善悪があるのではなく、事実に善悪の評価をくだす私の都合があるだけですね。
貴重な気づきを教えてくださりありがとうございました。
質問者からのお礼
中田三恵 様
吉武文法 様
ご回答、ありがとうございます。
お二方のお返事の両方とも、今、まさに私が感じている二つの側面に言及されていて、とても驚きました。私の拙い説明から、これほど深く、正確に言い当てて下さったこと、まずは感謝申し上げます。
中田様のおっしゃるところは、「人としての感性を大切に」ということだと受け取りました。また、吉武様のおっしゃるところは、質問で私が書いた通りのことを受け取って下さったのだと思います。お二方のおっしゃることは私にとってはどちらも正解ですが、「人間的な感性と、ありのままの事実の狭間」に立っていて、どちらでもなく、どちらも備えているということを自然に感じているような不可思議な形です。苦しみも絶望も、喜びも愉しみも備えていながら、どれも選ばない、としか表現のしようがないような気持ちです。究極に楽で、何ものにも煩わされない心地のような、なんの力みもない充足感のような…意味が分かりませんよね。すみません。
吉武様の「有難い」についてのご意見を読ませていただいて、膝を打ちました。「感謝」という後付けの意味ではなく、「有ることが難しい」という文字通りの意味だったのか、と。一瞬、一瞬が奇跡的な化学反応の結果が現れては消えていく。壮大だけど、至って普通。
とにかく、今までには感じたことのない気持ちにあるようです。
全然、まとめになっていなくてごめんなさい。今の私には、こんな表現しか出来ないみたいです…