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折り合いをつけるとは?経験者や年上を敬うとは?

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有り難し有り難し 14

ある問答で、「家族を大切にするとは」の問いに、「キレイな言葉だけが一人歩きして中身がない」という答えを拝読しました。
なるほどな、と思いました。

「今の若者は道徳心がない」と仰る方がいます。本当にそうだろうか?と思います。中学生と接していて説明させると、道理が通っています。全く、道徳心が備わっていないとは思いません。冷静な判断ができているとさえ思うときがあります。
もちろん、人生経験が中学生は浅いので、「いやいやそれはまずいよ」ってところは指導します。正すべきは大人の方だと思います。大人のストレスの刃が子どもに向いていると思うのです。

私も精神的に未熟なときは、謝ることができませんでした。今は、間違ったことをしたときは、子どもに対しても謝ります。むしろ、子どもに対する方が素直に謝れるかもしれません。事情が分かれば、大人よりも中学生の方が「それなら、仕方ないね」と許してくれます。
大人もストレスフルな世界に生きていて、余裕がないんだろうなと思いますが。大変な状況にあるのに、「なぜこんなに強いんだろう?」って思う子もいます。何かで精神を保っているのかもしれませんが。

上司だから、年長者だから、敬わないといけないというのは違うかなと思っています。間違ったことを指示されたらできませんという必要がありますし、中身がなければ学びようがありません。大事なものは、深いところを知ることだと思います。ペーパーテストで測ることができる表面的なことだけ知って、自慢したり讃えたりすることは残念だと思います。考えを述べ合うのではなく、誰かに責任を擦りつけたり、「yes or no」になったりしている状況は気になります。

ただ、今の社会や私を作り上げたのは人生の先輩方なので、そこは感謝しています。

「自分は自他を大切にできているのか?」、「それは本当なのか?」、常に謙虚に振り返り、学び続ける必要がありますね。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

なんとかしたいですよね

ありがとうございます。
最初に誤解の無いよう補足しておきますと、お釈迦さまにも組織の長老や出家の先輩を敬えという教えはあります。それもかなりガチガチの礼儀作法になっています。学校の先生も同級生も同じ友達のように接するというのは、少なくともお釈迦さまの仏教ではあり得ないことです。
ただし「先輩も後輩を敬え」「師匠であっても間違っていたら弟子が注意すべし」「上司や先輩ならそれにふさわしい精進をしろ」「他人の欠点に目を付けず、ただ自分の事だけに専念なさい」という所がミソです。

それに今時のワカモン対老害という対立構図は助長したくないですしね。結局の所はステレオタイプではなく、目の前のその人に向き合いましょうと持って行きたいです。あと、貶すか敬うかの0か100かの態度は止めましょう…と。

ご年配の方々のお話を伺っていると、実は若者を軽視しているからキツく当たっているのではなく、今の若者が真面目であると自分たちが安心して死んでいけなくなるから否定せずにいられない、根深い闇が垣間見えてきます。ぶっちゃけ凄まじい悪循環なんですよね。。。詳しくは書きませんけど。

結局、「どんな人が尊敬できるか」ではなく、条件抜きの無償の敬意を社会全体として育てていくことでしか、その悪循環は断てないのだろうなと感じています。

いざ命尽きる時が来たなら、政府も病院も財産も妻子も誰も助けることはできません。ただ自分の行いの善悪だけが付いて来るだけです。「己に随い行くは只是れ善悪業等のみなり。」
他人を落として自分を上げる言動をしてはなならない戒を「不自讃毀他戒」(ふじさんきたかい)と言います。どうか、他人の境遇に理解を示し、優しく接することの心地良さが、親から子へ、子から孫へと伝わる世の中になって欲しいものです。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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質問者からのお礼

〉大慈 様
ご回答、ありがとうございました。
「お釈迦さまにも組織の長老や出家の先輩を敬えという教え」は気になります。20代の頃(とは言っても30代になって数年ですが)までは、無礼なことをたくさんしました。30数年の人生経験しかないですが、人は相手を敬わないと教えを素直に受けとることはできないのではないかと思います。そして、本気で教えを請うなら、頭を下げてでも請いにいかなければならないと思います。そうでないと、身にならないのではないかと思います。だから、教わる側の態度は大切なのかなと思います。一方で、指導者側も、相手の人権を尊重しなければならないと思います。結局、互いの信頼関係が必要かなと思います。
「凄まじい悪循環」の詳細な内容は分かりませんが、負のスパイラルに入っているのは感じます。人を互いに信頼できず、「ワカモン対老害」から始まって、「富裕層対貧乏人」などの新たな対立が起こり、地域に似たような人たちが集まり、部落差別が起こる。今、日本国憲法とは逆の方向に行こうとしているのではないかと思います。それが大方の民意なら、諦めてその環境で自分を適応するしかないかなと思います。
『結局、「どんな人が尊敬できるか」ではなく、条件抜きの無償の敬意を社会全体として育てていくことでしか、その悪循環は断てないのだろうな』については、私もそのように思います。一人一人がそう思って、自主的に動けばそうなるはずですけどね。
「他人にされて嫌だったことは自分はしないのが当然でしょ?」っていう人がいます。私は、人間そんなに強くないと思います。本気で目指す自分になるためには、理想の環境に身を置くか、スローガンを部屋の壁に貼って、心身を清めて、スローガンを唱和するか、それぐらいの覚悟でやらなければならないと思います。「お前のその精神構造を変えろ」っていう人がいます。本気で変えるなら、痛いところにも目を向けないといけないので、昔心霊番組の除霊風景のように、苦しみもがくことになります。精神構造は、その家系から続くものだと考えるからです。子どものうちに修正することは楽です。大人になったときよりは。だから、教育者はその人の人生、広くいうと国家の行く末を左右しています。そんな覚悟をもって、私はやってきたのですが・・・。
「今の若者が真面目であると自分たちが安心して死んでいけなくなるから否定せずにいられない」の真意も気になります。年配者の思いやりと受け取ることもできますし、自分たちが否定的な見方をされるから蹴落としたいという見方もできます。
なんとかしたいですが、諦めるしかないのでしょうか?自分自身が精進し、自分の周りから広げていくしかないですね。

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