読経をすすめられた理由
セラピストたちに読経をするようにすすめられます。
私自身も言われたので読経しますが続きません。
読経といっても「般若心経」くらいです
一時期は般若心経とお経を一巻あげていた時期もあります。
読経を薦められる理由は「霊性を高めて欲しい」という理由です。
でも、続けられません。
あげれば心も軽くなり
朗らかに毎日を笑顔と愛に満たされた心地ですごせるのです。
それらを自分自身で感じてきました。
読経という専門的な日々のおつとめに励んでおられるお坊様にお聞きしたいのですが、
やはりお経をあげることを私にすすめられますか?
セラピストたちが一方的にすすめたとしても、
私は納得できる回答をうけとれていないのです。
こうして、読経したくない気持ちをここに書いているのも、
たぶん納得できない一つのあがきだと思います。
毎日を明るく過ごせたならとても幸せだと思います。
そうなりたいと思うのにできない自分が悲しいです。
どうして、私はこの世に生まれてきたのでしょう。
そんなふうに、自分自身の存在すら認められなくなってしまいます。
お坊様たちはまいにちのおつとめで何を得られていますか?
多く質問し恐れ入ります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私の「納得」を手放す
ご相談拝読しました。
セラピストさんにお世話になり、読経を勧められているのですね。「わんねす」というお名前からも、セラピー内容からもスピリチュアル的な方向性のものだとお察しします。
一方、個人的には仏教はいわゆるスピリチュアル的なものとは一線を画すものだと理解しています。
読経で霊性は高まりません。読経は読経です。お経典を読むことです。お経には不思議なパワーでなく、具体的な教えが説かれています。その教えから我が身の事実に目覚めさせていただくのが仏教です。
「何かを得る」というよりは、「握っていたものを手放す」、「ないものをあると思い込み握りしてめていた事に気づく」という方向性かもしれません。
「まいにちのおつとめ」で得られるものがあるとしたら「我が身のいたらなさへの気づき」です。自分が凄いもの・気高いもの・清らかなものになっていくのではなく、どこまでも自分勝手で、怠惰で、あさましいものであることに腹の底からの頷きを与えられるのです。
「お経長いな~」「眠いなあ」「これお参りの人きちんと聞いてるのかなあ」「この後の予定は…」
などという雑念や自分を棚に上げ誰かを見下すような視点、自分勝手さが身に沁みます。
教えに触れていれば、読経中もお経の教えが目から、耳から、諳んじる口から入ってくる時もあります。それは「不思議な事」ではなくて、教えから我が身が照らされているという事です。
わんねすさんは「納得」を求められているようですが、私の納得と無関係に世界も私もここにあります。
わんねすさんは納得してこの世に生まれて来たのですか?そんなことはありませんよね。
生まれも、老いも、病も、死も、自分に起こる出来事も、他人の気持ちも、一切は思い通りになりません。私の納得の範囲のものではないのです。
思い通りにならないものを思い通りにしたいから人間は苦しみます。
それならば
思い通りにしたい気持ちを手放す
思い通りにしたい気持ちに気づき上手く付き合っていく
思い通りにしたい気持ちはどうならなくとも私は今ここに許されていることに目覚める
そういう道に目覚め、私たちにもその道を伝えてくださったのが仏様であり、仏様の教えに照らされながら歩むその道が仏道です。
「霊性」を高める
読経で「霊性」を高めるとは、どういう意味でしょうね。
アメリカでも有名な鈴木大拙さんという仏教者の著書に「日本的霊性」という本があります。
この場合の「霊性」とは、宗教観とか精神観とかいうニュアンスだったと思います。
私もそのような意味で「霊性」を考えたいです。スピリチュアルな意味ではなく。
読経で「霊性」(宗教観)が高まることは、ありえます。
経典は仏教の教えが書かれたテキストですから、それを読むことは、仏教を学ぶことになりますので。
他に、読経の効果といえば、一定リズムで唱えることは、脳のリズム運動なので、心を落ちつかせる効果が期待できます。
ただし、脳のリズム運動は読経だけではありません。
アメリカの野球選手が試合中にガムを噛むのも、同じような効果があると聞いたことがあります。
念仏をとなえたり、座禅の呼吸を一定リズムでやるのも、同様の効果があるかも。
つまり、読経は、
教えを学ぶ精神的な「勉強」と、脳のリズム運動という「体育」の両面があります。
あと、お経には、仏教の慈悲も説かれています。
仏の慈悲に共感できれば、心が穏やかになると思います。
宗教心を深めるもの
わんねすさんは、読経をすれば心が軽くなる、そう実感しておられるのに、読経することに疑問を感じておられます。
なぜなのでしょうか。
おそらく、実感しているけど、理屈が分からないからでしょう。
私の場合、読経というものは、ご本尊あってのものだと感じています。
ご本尊を見据えながら、口からお経を発する。
それにより、毎朝宗教心を深めているのです。
科学的な視点から見ると、読経には様々な効果があるかも知れません。
しかし、僧侶である私には、無縁です。
ですので、効果という視点で見ない私からすれば、読経をしたくなければしなくてもいいと思います。
これは提案ですが、観音霊場などを巡り、観音様にお経をあげられてはいかがですか?
仏さまを前にすると、自宅で唱えるお経との違いを感じます。
読経とは、静かに自分と向き合い、信仰心を深めるもの。
心を空にする。
何の意味があるのか?などとは考えずに。
こだわれば、読経の意味合いが分からなくなりますよ。
質問者からのお礼
この質問を書いたのちに、質問の事を考えると悲しくて涙が出ました。
お経をあげると、ありがたい気持ちになります。
そして、あげながら涙を流します。
自分自身の中にある何かが許されるようでありがたいと涙が流れます
そして、それが嫌いなわけではありません。
セラピストたちに言われたことがショックだったんだと思います。
実はこのお礼コメントを書きながら、
悲しみの正体も、したくないと思う気持ちの正体もわからないでいます。
書きながら色んな事が頭のなかにめぐって集中出来ずまとまりません
(すみません😢⤵⤵)
観音霊場などで観音様にお経をあげるのはいいですね。
やってみようと思います。