御守りや御札・ご祈祷、開眼供養について ②
法覚寺 吉武文法さま
欲を肯定する宗教があるとしたらそれはかなり危ういものです
というご回答を頂きましたが、
金運や健康運・交通安全等々の御守りや御札は何の為にあるのですか?
わたしの行動を見守ってくださっている、
ということはないのですか?
悲しい時、苦しい時、どうしたら良いか判らない時、等々、
助けて欲しいと祈り求めることは、意味の無いことですか?
病気の回復や商売繁盛等々を願ってご祈祷頂くのは危ういのですか?
去年、母の回復を願って何度もお願いしましたし、
わたしの商売・収益についてもご祈祷をお願いしています。
勿論、怪しげな新興宗教などではなく、
多くの方々がご存知の歴史ある大寺院で頂いております。
自分の在り方について気付きを得たいと思うことも
「欲」ですよね?
命尽きるとき、極楽浄土に行けるよう徳を積みたいと思うのも
「欲」ですよね?
知りたい・学びたいも然り。
そういった一切の欲を持たないことは素晴らしいと頭ではわかりますが、
わたしはレイヤーがずっと下なので、ご教示頂けましたら有り難く存じます。
宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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全部欲だからこそ
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「欲を肯定する宗教があるとしたらそれはかなり危うい」の意味について共に味わうことが出来ればと念じます。
さて、「自分の在り方について気付きを得たいと思うこと」も「命尽きるとき、極楽浄土に行けるよう徳を積みたいと思う」のも 「欲」です。
私たちの思いにここまでは欲じゃなくて、ここからは欲であるということは言えないでしょう。基本的に全て欲であり、煩悩であり、執着です。欲をなくしたいというのも欲ですからね。
だからこそ、その自分の在り方に目覚めなさいというのが仏教です。そして仏教が欲を肯定しないというのは「一切の欲を持たない」ということではありません。そういう素晴らしいものに私は成れると思うのもある意味では傲慢な欲ですしね。
(なお、お釈迦様自身は欲をことごとく滅尽されていますが…。)
「欲を肯定する宗教があるとしたらそれはかなり危うい」
というのは人間存在を否定することではなく、そうした人間のあり方をそのまま肯定してしまうような教えは危ういということです。
なぜならば欲を満たしても満たしても最後には老い、病み、死ぬからです。欲を肯定し、欲を満たすことを救いと説く宗教があるとしたらそれは根本的な救いではありません。
仏教はそうではありません。仏教が問題としているのは基本的にはこの私が老い、病み、死ぬことであり、それらが「思い通りにならないこと」=「苦」であることです。
ですからたとえ祈祷だろうが、お守りだろうが何だろうが、そこを「思い通りにできる」と勘違いさせる、期待させるようなものは本来の仏教からは離れてしまっていると個人的には思います。
悲しい時、苦しい時などに助けて欲しいと祈り求めることは意味の無いことではありません。祈りのもとには救われたいという願いがあるからです。その願いこそが真理への歩みを支えるものです。そして、その歩みを間違った方向に導かないように教えがあります。
じゃあ色々な御守りは何なのか?私には答えられません。ウチの宗派では扱いませんしね。
何とか答えるとしたら「方便(真実へ導くための手立て)」ということでしょうか。やはり皆そこを求めます。だからまずはそこを入り口として入ってもらって…なのでしょうかね?
質問者からのお礼
法覚寺 吉武文法 さま
ご教示有り難うございます。
システムが分からなくて失礼致しました。
「欲」がなければ、
生きる原動力とは一体何なのだろうと思いましたし、
「欲」を否定したところで、
実際はあるし、除くことも出来ないし、
わたしは努力も感謝もしますが、
自分が煩悩の塊で、願う祈る求める頼ること甚だ多い
ということは自覚しております故、
とても為になるお話し有り難うございます。
もっともっと知りたいです!
どうぞ宜しくお願い致します。