自分の存在価値と生きる意味
自分は社会人になって2年になりますが、同僚や後輩達はどんどん仕事が出来て日々周りから頼られています。
しかし、それに対して自分は仕事もまともに出来ずミスばかりな上、理解力も低いので一向に上達もしません。
家族もみんな優秀で、自分だけが何の成果もないので、両親達にとても申し訳ないです。
そうした日々の中で、「自分には何か一つでも取り柄があるのか?」と考えた時、何も無い事に気づきました。
周りの人達は何かしらの形で人の役に立ったり、貢献したり出来ているけど、自分は何の役にも立たずただ資源を食い潰して生きているだけ。
「そんな自分には生きる価値はあるのか?」
「存在意義はあるのか?」
そう自分に問いかけた時、いずれも答えは「無い」でした。
「ならば自分は死んだ方かいいんじゃないか」と思いましたが、自分の弱さ故に死ぬのは怖く自ら絶てません。
そんな中、先日の西日本豪雨があり、身近で沢山の人が死にました。
そして、その時「何故自分が生き残ってしまったのか。死んだ人達はきっと自分なんかよりも価値ある人間なのに。」と思い心が押し潰されそうになりました。
こんな自分ですから、「死んだ人の分まで生きる」価値は当然ありません。しかし、死ぬのも怖いので出来ません。
これから自分はどう生きていったら良いのでしょうか?
助けて下さい。
自らの無能さ 有益性のなさ
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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命に優劣はなく、どのように生きたかが大切です
はじめに、西日本豪雨災害で多くの尊い命が失われましたことに、深く哀悼の意を表します。
さて、あなた自身、あの豪雨災害の中生き残ったことに対して、罪悪感をお持ちのようですが、どの命も尊い命であり、命の価値に優劣はないのです。私の命は私の命であって、あなたの命ではありません。でも、私の命は私の所有物ではありません。あなたの命にしても同様です。あなたの命はあなたの命であって、私の命ではありません。しかし、あなたの命はあなたの所有物ではないのです。全ての命は仏様の世界から頂いた命、仏様の命なのです。ですから、命の価値に優劣はないのです。たとえば、介護を受けなければならなくなったお年寄りの命の価値は、元気だった時の命と比べてその価値は落ちているのでしょうか。あるいは、生まれてまもなくして亡くなった赤ちゃんは、この世に生まれてくる価値がない命だったのでしょうか。そう考えれば、命の価値に優劣を付けようとすることが、如何に傲慢なことなのかが分ります。
そして、人生で大切なことは、結果ではなく過程です。私たちの命は常に死と隣り合わせです。私たちの死は、数十年後に待ち構えているものではないのです。ですから、どのような人生(たとえば、裕福な人生、失敗の少ない人生)だったかではなく、どのように生きたかが大切なのです。
以上が私からの回答です。私の回答が少しでもお役に立てればと思います。
質問者からのお礼
ご回答頂き誠に有り難う御座います。
いつも目先の失敗などに気を取られ、自分がどのように在りたいのか何て考えた事もありませんでした。
今一度、自分の在り方を考えてみたいと思います。
「自分の価値は自分で築く」
よく聞く言葉ではありますが、お坊様から言われると不思議と心にグッと来るものがありますね。
生産性にばかり気を取られず、自分なりの価値を見い出せるよう頑張ってみたいと思います。
この度は本当に有り難う御座いました。
亀山様
「私の命は私の命であっても私の所有物ではない」
とても深いですね。
亀山様の御年寄や赤ちゃんの例え話を聞いて、命に価値の優劣は無く等しく尊いんだなと自然と納得出来ました。
有り難いお言葉、誠に有り難う御座います。