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同じ悪の語でも悪違い
正義 対 邪悪の悪はキリスト教やその親類の宗教の概念です。要するに創造主たる神の意志に適う行いが正義であり、反する行いが邪悪です。仏教の言うところの悪とはそれとは全く別物です。
仏教では、悟りに近付く行いが善であり、悟りから遠ざかる行いが悪です。
では悟りとは何か?涅槃、ニルヴァーナ、つまり心の平穏です。
では悟りから遠ざかるとは何か?苦です。
苦とは辛い苦しいの苦ではなく、『思い通りにならない』ことです。もっとも、思い通りにしよう、思い通りでないと嫌だという考えが辛い苦しいの苦を生むのは事実です。
両者の違いとして分かりやすい例に捕鯨があります。
キリスト教では知恵を持つ生き物は「神が人間に仲間として与えたもうた生物」なので、賢い動物である鯨を傷付けることは邪悪と解釈される『場合がある』のです。
しかし仏教では生物に差を付けて「アッチは尊い生物、コッチはいやしい生物」と評価することをとても嫌います。したがって「豚は家畜だから当たり前だけど鯨はかわいそう」という話にはなりません。
※キリスト教での家畜は神が人間に食糧として与えたもうた生物。優生学的発想というよりは神と人との契約内容。
話を仏教に戻しますが、欲や怒りとは「思い通りにしてやろう」、「思い通りでないと許さん!」という考えです。だから苦であり、悟りから遠ざかる行いであり、悪心であるということです。
もっとも欲というワードは独り歩きし過ぎて誤解だらけになってしまっています。たとえば「したい」と思ったら欲だから、「呼吸したい」と思ったら欲であり悪心だ!というように。
そうではなく、そこから一歩進んで「もっともっと」と『際限なく思いを増幅させること』や、『反対に断固拒絶すること』が煩悩としての欲です。
苦につながる煩悩だから
欲や怒りは煩悩です。
煩悩は、苦の原因になります。
赤ちゃんの目の前に、お母さんのおっぱいや、おもちゃをゆっくり近付けてみると、赤ちゃんが泣き出す場合があります。
大好きなおっぱいやおもちゃが近付いたのに、泣く。
なぜでしょうか?
それは、「欲しい」という欲の煩悩が発動して、「欲しいのにまだ手に届いていない」「早くちょうだい!欲しい!欲しい!」という苦痛を感じているからではないでしょうか?
「欲しい」は苦、ストレスなのです。
一方、怒りは、「嫌だ」「むかつく」「悲しい」など、やはり苦痛です。
欲も怒りも苦・不満のもとになる煩悩なのです。
そして、仏教では、煩悩がなくならないと輪廻転生を繰り返してしまうとも考えます。
苦痛だらけの「生」を、何度も何度も繰り返す要因になる煩悩だから、欲・怒りは悪なのだと思います。
欲も怒りも、現状に満足していない感情です。
完全な幸せ、完全な満足ではない状態なのです。
完全に満足したら、日本語で言う「成仏」なのです。
たとえば、成仏していない幽霊がいるとしたら、幽霊は欲・怒りという苦しみ、不満の中にいるはずです。