世俗の寄付行為と仏教の布施はどう違うのですか?
お世話になります。
私はクラウドファンディングやアマゾンの欲しいものリストが好きで、人のためにお金を使ってしまうのですが、それは仏教の布施とどう違うのかよくわかっていません。
お布施を受け取るお坊さんのご意見をお聞きしたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
結果の責任と結果の無視
世間的な寄付は、募った人が社会的な活動に役立てます。募った人が寄付した人へ感謝状や領収書を出したり、会計報告をする場合もあります。
仏教の布施は、施しをする人が自分自身の善行として寄付します。布施のことを喜捨とも言いますが、自分の執着心を捨てるために喜捨します。そして出家修行できない自分の代わりにお坊さんの修行を支援して功徳を積みます。
日本人にはあまり浸透していない感覚ですが、東南アジアやインドの方ではお施主さんがお坊さんに「(功徳を積ませていただいて)ありがとうございます」とお礼を言います。逆にお坊さんがお施主さんにお礼を言ってしまうとお施主さんに本気で怒られます。お施主さんが見返りを求めて(執着しながら)布施したことになり、功徳が全て台無しになるからです。
それどころかお坊さんは受け取る時に目を伏せ、お施主さんと目を合わせないようにします。お施主さんとの間に恩義や愛着が湧くと、それが執着となってしまうからです。それほどまでに徹底して施主は施主、お坊さんはお坊さんで完結しています。
お坊さんはお礼は言いませんが回向(えこう)をします。その功徳を全世界にシェアしましょうと宣言し、慈悲の心を養うのです。
日本のお坊さんがお布施を受けてお礼を言うのは、日頃から「感謝の心を大切にしましょう。いただきますやありがとうを言いましょう」と説いているため、率先して言わねばマズいからです。
ただ、勧進(かんじん)、つまりお寺の修復や造立などのためにお布施を募る場合はまたちょっと違うでしょう。むしろクラウドファンディングの先駆けのようなものです。
また、喜捨は必ずしも相手がお坊さんでなければいけないわけではありません。お坊さんでなければ回向がありませんけどね。
そのように0か100かと割り切るものではないでしょう。
生飯(さば)と言いまして、禅の道場では食事の際に1人当たり数粒のご飯を鬼神衆に施します。要するに鳥や虫、池の生物たち自然界に施すのですが、それも慈悲の善行です。何でもとは言いませんが、自分自身の心掛け次第で様々なことを善行にできます。
そんな小さな善行を積み重ねることがおすすめですね。大きなことをしようとすると、どうしても結果や影響に責任が生じてしまいますから。
もし大きなことをしたいと思い立ったら、菩提寺さんのように綿密に話し合える関係の中で行うのがよいでしょう
お布施というのは三つありますよね。
1、財施、いわゆるお金や物などを施すこと。
2、法施、仏法を施すこと。
3、無畏施、不安を取り除くこと。
どれも見返りを求めない施しであります。
その中の財施は、厳密には一般の寄付とは意味が違いますが、現代の日本ではかなり近いものになっていると思いますね。
私も財施を頂くことがありますが、お檀家様のお寺の為に使ってくださいという気持ちを感じて、思わずありがとうございますと言ってしまいます。
そして私もちゃんと法施と無畏施をしないといけないなと心を改めるのであります。
追記
バーターとは物々交換の意味でしょうか?
それなら違いますよ。
どれも見返りを求めないから布施なのですよ。
質問者からのお礼
大慈様
すっきりとした解説ありがとうございました。布施は本来施主が功徳を
積むためというのがよくわかりました。寄付は目的のためですから、ちょっとちがいますね。
三宅様
解説ありがとうございました。今の日本の仏教では、財施と法施と無為施がバーターに
なっているので、寄付と同じように見えるということなのですね。