心を見つめる自己とは?自己を鍛えるには?
まず自己がどこあるのかわかりません。
目を閉じていると感じるのは、感覚を享受する体と、それに反応する心と…これらを見つめる意識が仏教でいう自己なのですか?
また自己を見つけたとして、どうやって自己を鍛えればいいでしょう?
さっきも「一本満足バーを食べたい!」という貪りの心に負けてしまいました…
お坊さんはこういう時どうしますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「自証分」の否定
つぐみ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
柳原貫道様のおっしゃられますように、色々な要素が集まって、「わたし」というものが構成されているため、「これが自分だ」として言える何か実体的なものがあるというわけではありません。
その構成要素は、主には色(物質・肉体)、受(感覚・感受作用)、想(表象・概念作用)、行(意思・意志作用)、識(意識・認識作用)として、それらが集まっていることによって成り立っている「五蘊仮和合」と申すところとなるのであります。
もちろん、自分は「無い」わけではありません。確かに今、現にこのようにして存在しています。存在していますが、では、いったい、何が自分かとなれば、「これ」と決めて言えるようなものは見当たらないということであります。
そして、「心を見つめる自己」というものが何かも、実は知り得ないところとなります。
これは、「自証分」として否定されるところとなります。
簡単な例としては、「眼は眼自身を見ることができない」、あるいは、「刃は、刃自身を切ることができない」というのと同様に、知る働きのある心、その「心は、心自身を知ることはできない」として否定されるのであります。
では、自分の心は知り得ないのかと申しましたら、そうでもありません。
自分の眼も、鏡を通せば見ることができるように、心も他に依りて、他を認識していることを通して、知り得ることができるところとなります。
また、あるいは、比量によりて、つまり、色々な他の分析(思考や他の者による分析等)を参考とすることにより、あくまでも、そのものでは無いのですが、こういうものかと想起することができます。
それにより、今の自分の心の状態が、例えば、こういう煩悩により、悪い状態にあるのだと知り得ることもできるため、抑えたり、コントロールしたりとすることも可能となるのであります。
その貪りも、どこまでが良くて、どこからが悪いのかも、色々な他の分析(思考や他の者による分析等)を参考とすること(できれば仏教的な思考)によって、判断して参りたいものとなります。
もし、「自証分」の否定についてのご関心がございましたら、ツォンカパ大師によるチャンドラキールティ大師の「入中論」の註釈書「密意解明」をご参考になさられることをお勧め申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口様、柳原様、ご回答ありがとうございました。
自己にはこれという物がないんですね!
今までこれこそが自分だと思っていたものも自分の一部だということですね。
密意解明、難しそうですが図書館にあったらよんでみようと思います。
ありがとうございました。