hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

心を見つめる自己とは?自己を鍛えるには?

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

まず自己がどこあるのかわかりません。
目を閉じていると感じるのは、感覚を享受する体と、それに反応する心と…これらを見つめる意識が仏教でいう自己なのですか?

また自己を見つけたとして、どうやって自己を鍛えればいいでしょう?
さっきも「一本満足バーを食べたい!」という貪りの心に負けてしまいました…
お坊さんはこういう時どうしますか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「自証分」の否定

つぐみ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

柳原貫道様のおっしゃられますように、色々な要素が集まって、「わたし」というものが構成されているため、「これが自分だ」として言える何か実体的なものがあるというわけではありません。

その構成要素は、主には色(物質・肉体)、受(感覚・感受作用)、想(表象・概念作用)、行(意思・意志作用)、識(意識・認識作用)として、それらが集まっていることによって成り立っている「五蘊仮和合」と申すところとなるのであります。

もちろん、自分は「無い」わけではありません。確かに今、現にこのようにして存在しています。存在していますが、では、いったい、何が自分かとなれば、「これ」と決めて言えるようなものは見当たらないということであります。

そして、「心を見つめる自己」というものが何かも、実は知り得ないところとなります。

これは、「自証分」として否定されるところとなります。

簡単な例としては、「眼は眼自身を見ることができない」、あるいは、「刃は、刃自身を切ることができない」というのと同様に、知る働きのある心、その「心は、心自身を知ることはできない」として否定されるのであります。

では、自分の心は知り得ないのかと申しましたら、そうでもありません。

自分の眼も、鏡を通せば見ることができるように、心も他に依りて、他を認識していることを通して、知り得ることができるところとなります。

また、あるいは、比量によりて、つまり、色々な他の分析(思考や他の者による分析等)を参考とすることにより、あくまでも、そのものでは無いのですが、こういうものかと想起することができます。

それにより、今の自分の心の状態が、例えば、こういう煩悩により、悪い状態にあるのだと知り得ることもできるため、抑えたり、コントロールしたりとすることも可能となるのであります。

その貪りも、どこまでが良くて、どこからが悪いのかも、色々な他の分析(思考や他の者による分析等)を参考とすること(できれば仏教的な思考)によって、判断して参りたいものとなります。

もし、「自証分」の否定についてのご関心がございましたら、ツォンカパ大師によるチャンドラキールティ大師の「入中論」の註釈書「密意解明」をご参考になさられることをお勧め申し上げます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

川口様、柳原様、ご回答ありがとうございました。
自己にはこれという物がないんですね!
今までこれこそが自分だと思っていたものも自分の一部だということですね。
密意解明、難しそうですが図書館にあったらよんでみようと思います。
ありがとうございました。

「お坊さん・僧侶全般」問答一覧

前住について

こんにちは 「問答」に同様な内容があり、相談していいか悩みました。 たまたま恋愛した方がお寺の長男で2年前に帰省し彼が住職となり私が坊守となりました。私は在家で両親は生前は全くお寺との付き合いをしていなかったので私もお寺の知識はありませんでした。 彼の両親は最初は私との結婚に否定的でしたが、息子が後継ぎとなることで止む無く許してくれたようです。(最初は彼は後継ぎを拒んでいました。) 結婚前に坊守の仕事を全く教えてもらわなかったので、仕事内容を覚えるのに必死な毎日でしたが、前住・前坊守の私への当りがきつく毎日辛いです。 一番辛いのは私の亡くなった両親のことを悪く言われることです。両親が亡くなったとき、嫁ぎ先の宗派(浄土真宗)とは違うお寺(浄土宗)でお葬式・法事をしましたがその事についてひどく非難されます。細かいことを申し上げればきりがないのですが 「だからお前の親はろくな死に方をしなかったんじゃ」と言われ とても悲しかったです。そのことを夫に伝えましたが、そんなこと 聞き流しておけばいいと相手にされませんでした。(もともと、夫と義父は仲が悪いです) 他にも私の態度や色々なことについて罵声を浴びせられ我慢しますが、その度に「ろくな死に方をしなかった」の言葉が思い出され涙が止まりません。 この先も罵声は無くならないと思いますが、その際、私の心をどのように整理していけばよろしいでしょうか。

有り難し有り難し 12
回答数回答 2

導師様の態度について

いくつもの質問にお答えしていただきありがとうございます。また、あけましておめでとうございます。今年もまた質問でご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願い致します。 さて、今回は今までの質問とは違います。先日父方の祖母が亡くなってしまい、家族葬ではありますが出席させて頂きました。 葬式自体は業者の方々が丁寧にしてくださったので、良い別れができたのではないかと思います。 しかし、1つ心残りがあります。それは、お経を唱えてくださった導師様の態度です。通夜、告別式ともに同じ方が来てくださったのですが、どちらの時も読経中に草履で遊んだりマスクの中を掻いたり…また若干眠たそうに読経していました。 葬式のランクは低い方で設定しましたし、家族葬で出席した人数は少ないので、気の抜けるのはあるかもしれません。しかし、そのお経は意味のあるものだったのか、祖母はちゃんと仏様?になることが出来たのか(祖母が浄土真宗だったので)気になります。 父や叔母さんなどは特に何も言わなかったのですが、今回の導師様の読経中の態度は問題なかったのか、また問題あるとすればどうすれば祖母は大丈夫なのかお答えください。 長くなりましたが、どうかお願いします。

有り難し有り難し 27
回答数回答 2

お寺=〇ちゃんねる?

 いつもお世話になっております。最近、思うことがあります。 失礼を承知で単刀直入に申し上げますと、 「お寺の客層(とくに常連)、やべえ」 まるで、「〇ちゃんねる」のようです。まともな人もいますが、 やばい人の方が多いです。  自分より弱そうな信者を探して友だちになる振りをして近づき、 支配下に置いたり利用したり、いじめの標的にするソシオパス サイコパス野郎。  他宗派をバチボコに叩き散らかし、「俺たちこそ特別、俺たち こそルールだ」と言わんばかりの薄っぺらな、説法というのも 噴飯な講釈を垂らす僧侶。  神秘主義に傾倒して、(本来、現実ととことん向き合い、 しんどい事が起きても、物事が成立する条件、環境を 炙り出して現実的に解決していくと説いているはずの)仏教を 捻じ曲げ、拝んでさえいればいいと思い込んで、現実的な 行動を起こそうとしない怠け者。  たたりや呪いのせいにして、努力しようとしない奴。  これでは、ますます仏教が誤解されるばかりです。新興宗教 と大して変わらないじゃん。  他の信者(時にお坊さん)に対してマウンティング、 時代遅れな神秘主義の信奉…  精進努力を誓うはずの道場で正反対の行動に勤しみ、 人格が破綻、結果、現場に蔓延しているのは、妄信、魔境、無明…  ちゃんとしたお寺さんもあるのでしょうが、私が行ったお寺の 数々は、冷静に振り返ってみると、全てこんな感じです。親鸞 さんの気持ちが、痛いほどわかります。  たまにちゃんとした人もいるけれど、基本多いのは、人格が ぶっ壊れたやべー奴。「〇ちゃんねる」かよ。先日など、 「生活保護費が下がるそうね。いいじゃない。みんなの税金で 食べてるんだから、働けるなら働いてもらわないと」 などと平然と抜かした奴がいて、さっきまで相槌を打っていた 信者さんたちが、静まり返るという事態も発生しました。 (ちなみに、障害年金がもらえず、生保を受給して就労準備を している人もいる。こんな発言をする奴が仏教徒だなんて)  最近は、山門や鳥居を潜るのが恥ずかしいくらいです。こんな 奴らと同類かと。  先生方のご高見を拝聴したく存じます。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 17
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ