相談というよりほぼ愚痴なんですが… 私は神仏との間にご縁を求めて神社やお寺でお参りしたりネットや本で世界の宗教を調べたりしています。 それで最近私は引っ越しがあり、たまたま近所にキリスト教の小さな教会があるのを見つけたので興味本位で飛び込んでみました。 で、特に教会の人たちに拒まれる事もなく私を受け入れて聖書講読が行われたのですが…正直嫌な気持ちになりました。 牧師さんの言葉にも新約聖書の中にも「神は人の作った宮にお住みになりません」といった言葉がありました。 ふ~ん…といった感じで聞いていたのですが牧師さんは更に噛み砕いて説明して下さりました。 その噛み砕いた言葉の中には「全知全能の神が神社の社に収まるなど人が小さな犬小屋に住むのと同じ事なのです!」 「お地蔵さんにはよだれ掛けや頭巾がありますが人がそのように面倒を見ないと何もできないのです!」 「更には巨石や大木に神が宿るなど私は呆れました!常々おかしいと感じていました!」 …などと、人差し指を立てながら声高に言っておられました 私は牧師さんのお話を聞いている内に「何?ふざけるなよ?」と怒りが込み上げたその後に頭が真っ白になり腹がズ~ンと重くなっていました。 キリスト教の教えの中には「偶像礼拝」という罰(?)があります 唯一神であるイエス・キリストを背き偶像(社や仏像)を拝むなどとんでもない、そのような罪人は永遠の火の池(地獄)に投げ込まれるんですって… なんだろ、日本に生まれて神道や仏教が身近にありすぎる為か、私がそれらばかり勉強していたからか知りませんが私の今までの参拝やちょっとした勉強、ひいては日本人のあり方や宗教感を根本から否定された気分でした。 キリスト教では愛の精神を持つ事など優れた教えがあるようなんですが、ならば他の宗教を悉く否定するのって「そうじゃないでしょう?」と思うんですよね。 ちなみに牧師さんと2人だけでお話する機会があり、これからの集会にも誘って下さいました。 とても真面目であり良い人でしたよ、他の宗教を引き合いに出して否定するだけという点以外は。 イマイチ答えにくいとは思いますが仏教のお坊さんはキリスト教をどう思いますか? 私はキリスト教にも優れた教えがあると思いますが正直な所もうウンザリしたので「キリスト教は…もう勉強しなくていいか…」と思いました。
私の妻とお坊さんが不倫をしました。同じ会社で勤めていたことから関係がスタートしたようです。発覚から、半年程連絡もなく手紙だけをよこして謝罪終了。 手紙の内容もどこからか引用したようなもの。 お坊さんだけでなく私にも妻にも原因はあると思います。 また、そのお坊さんとはお世話になっているお寺の息子さんで、高校からの知り合いということもあり、特にお坊さんを責め立てると言うことはせず、穏便に済ますことにしました。 しかし、後日知人からそのお坊さんが結婚式を挙げたと聞きました。 また、そのお坊さんは私の叔父の会社に私が紹介して勤めており、何食わぬ顔で未だその会社に勤めています。(叔父は不倫のことを知っています) 妻は退職し、私は叔父や関係者に謝罪に回りました。 その間お坊さんは何もせず、普段と変わらぬ生活を送っていたようです。 手紙には1人のお坊さんとして、人間として信頼を取り戻せるように努力すると書いてありましたが、謝罪もなく謝罪の手紙を出す前に結婚式を挙げる人をどう再度信頼すれば良いのか。 何故、それで信頼を取り戻せるように努力すると言えたのか不思議でなりません。 私はそのお坊さんに対しての怒りが収まりません。 この怒りはいけないものでしょうか? いけないものであれば、どのように収めればいいのでしょうか。 お坊さんも1人の人間です。時には過ちもあると思いますが、あまりにも不誠実と思えて仕方ありません。 決してそうではないと思いながらも、お坊さんはこのような方ばかりではないのかと思うようになってしまいました。 このままお坊さん、お寺、仏教を嫌いになるということは避けたいです。 新たにお坊さんと出会う方法はないでしょいか? 伝わりにくく、拙い長文失礼しました。 よろしくお願いします。
現在大学生で、卒業後に実家を継ぐべきか、自分の夢を追いかけるべきかで悩んでいます。 実家が日蓮宗のお寺で、父が住職をしています。父は数年前に病気をし、現在は退院していますが、いつ働けなくなるかわからないそうです。 私には兄がいるのですが、先日一般企業への就職が決まり、とりあえずは継がずに夢に向かって働くようです。 私はまだ、将来について決まっていませんが、海外で仕事がしたいという夢があります。 しかし、あとを継がなくてはならないのではないかという義務感も感じてしまっているのです。 父は「もし誰も継がなくても、代わりに入ってくれる人を探すから、お前は自分の進みたい道に進みなさい。」と言ってくれています。 しかし、ご先祖さまが代々続けてきたものを、私が途絶えさせてしまっていいのかと不安に思うのです。 私は尼僧になることが嫌なわけではありません。ただ、自信がないのです。 住職として多くの人の支えとなる父の姿を尊敬していますし、憧れています。しかし、自分がそうなれる自信が全くないのです。 また、私は今までそこまで信仰心が強い方ではなく、寺の娘として何かやってきたかといえば、そうではありません。 もし私が「尼僧になり、実家を継ぎたい」と言えば、父は私の師僧となってくれるでしょう。 しかし、こんな自信も信仰心も中途半端な人間が、尼僧になることなどできるのか、なったとしても父のように尼僧としての責務を果たせるのかと考えてしまい、覚悟を決めることもできません。 話が長くなってしまいましたが、このようなことを悩み続け気づけば2年の時が経ってしまいました。選択の時が近づいています。 解決に向けて少しでも進展させるために、アドバイスをしていただけたら幸いです。 最後に決断するのは自分自身であるとわかっているので、あくまで皆様の考えを聞かせていただきたいです。 よろしくお願い致します。
真言宗の先祖のお墓に父が入りました ◯お坊さんだけでは、管理手入れができない広いお墓です。墓守りさんは、だいぶ前に出て行かれました。 その為、お寺の入り口には、粗大ごみが置いてあり、草木はぼうぼうで、車から降りると、蚊が群れをなして襲ってきます。尋常な数ではありません、孫や母は、刺されすぎて熱が出るほどです、その為お墓参りは、時期を見てさっと行くしかありません。一度住職に、木や草が生えてて蚊がすごくて〜となんとなく伝えたのですが、木や草は空気の浄化をするから何もしないとのこと粗大ゴミや家の不用品も見えるところに、かなり置いてあり、かたす様子も全くありません ◯7回忌が終わり未だに墓誌を彫ってもらえないので、一度お願いしたところまとまったら、私が彫るからってことでした。 まとまったらとは、どう言うことなのか?石屋さんが彫るのではないのか?とにかく直接石屋さんに話はさせない住職です ◯父のお葬式の時どのくらい包んだらと母が聞いたら50万と車代と言われ包みました。これは相場なのでしょうか?父の戒名、院とか立派なのはついてません一般的と親戚の人が言ってました 母の時はそんなに包まないと思います ◯7回忌が過ぎた後、お寺から7回忌の法要のお手紙が来ました。もうお布施も送り終わってるはずなのに、えっもしかして何もしてもらえてないのかと不安になりました。 ◯父は生前、お墓石をきれいに建て直しました。その時もかなりな金額を言われ父は仕方なく住職の言う通り450万できれいにしました墓石は立派な石ではありません 住職とは話をしても中々こちらの話は伝わりません。母もあの住職はお金しか頭にないとあのお墓には入らず祖父と父のお骨だけ他に移して墓じまいしたいと言ってます たぶんあの住職の事ですかなりの金額を請求されるか阻止されると思います どうしたらいいかわからず、相談させていただきました。よろしくお願いします
質問をご覧いただきありがとうございます。20代学生のものです。 先日知人から紹介を受けて数回お食事にいった方に告白をされました。しかし、告白された時に慌ててしまい「いま忙しいから」とはぐらかしてしまいました。また「いま好きな人はいない」と嘘をついてしまいました。 その方はお坊さんの卵で来年には本山の方へ修行、下山後も実家(私の居住地からは車で3-4時間ほどの場所です)へ帰ってしまうようです。私自身も彼のことは異性として好きだと感じています。しかしその上でお付き合いするうえで来年から会えなくなってしまう、私自身の将来(就きたい職業があります)等色々考えお付き合いをするのは無謀なことなのかなと感じています。彼との会話から将来を見据えてお付き合いをしたいといった趣旨も見受けられます。私も周りからも彼自身はいいと思うけど将来的にはお付き合いするのは難しいのではないか、といわれています。 反対される理由は自分でも分かり切ったことなのですが、先日の発言をとても後悔しています。彼は優しい人で「自分はyayaのことを好きだけど友達として会えるうちは会いたい」といってくれています。また私もまだ彼のことが好きで未練タラタラな状況です。お互いまだ付き合えるチャンスがあるかもしれないと腹の探り合いをしているような状況です。好きだから付き合いたいという気持ちはあるのですが普通のカップルのように会えるのももう一年もないのだと考えると軽率に付き合うのは良くないと感じます。 私はこのまま意志通り付き合わないのが正解なのでしょうか?それとも短い間でも好きだから付き合うのが正解なのでしょうか? 身の回りでお坊さんとお付き合いしている方がいないのでここで書かせて頂きました。拙い文章で申し訳ございません。よろしくお願いします。
このサイトにくるのもしばらくぶりになります。私は寺の生まれで、後継ぎとして育てられたから、仏教には親しみを感じて育ってきましたが、好きなこと本当にやりたいことは他にありました。 最近仏教の専門書はだいぶあったのを、実家の寺に送り返そうかと思っています。大量の本仏教書だけは処分するんじゃありませんよと母が言っていたから。 最近仏教のSP盤聞いて思ったんです。懐かしいなとは思えど、唱えたくないなと。今の坊さんの魚酒肉とか女とかの事情は在家とはあまり変わらない部分がありますが、(これは宗派によって違うかもしれない。私は浄土宗です。) これは還俗したほうがいいんでしょうか?また還俗は最近その概念がなくて僧籍返上というらしいですが、これはどうでしょうか? 一遍上人は(私は元時宗)還俗したあと再出家したそうですが、そういうこともまた可能なのでしょうか? 余談ですが、私の妹たちも得度を受けて?受けさせられて?いましたが、僧籍登録は妹たちはしなかったそうです。
世の中の精神レベルが低過ぎる件について、お坊さん方は危機感を抱かれないのでしょうか? 例えば、このサイトでの皆さんの質問でも、仏教に関する本を買って独学して自分自身で考えれば自(おの)ずと答えが出てくるはずの質問ばかりではないですか? 私も他人(ひと)の事は言えないけれど敢(あ)えて言わせてもらうと、みんな幼稚だと思います。 内面の豊かさや成熟が足りない幼稚な大人だから、衣食住が満たされていても心が満たされないんだと思います。表面的な豊かさばかり追求する幼稚な大人に付き合っていると人生が虚(むな)しく感じます。 このままだと、誰とも人生について深い話ができないまま、人生が終わってしまいそうです。 お坊さん方の最近の世の中に対して感じる事を思うままに投稿していただくと参考になります。宜しくお願いします。 以下、ポエム。 坐禅(ざぜん)して、無我を維持する。 少欲知足(しょうよくちそく)。 欲を少なくして、生きる。 囲碁、将棋。
自分はとある臨済宗建長寺派の長男です、 前々から虐められたことや時世も相まって弁護士になりたいと思っています。 反対に親は何がなんでも修行期間3年を経てからであるなら法科大学院に行っていいと言われて、もし先にやるなら縁を切るということです しかし自分は肉体の衰えや時間は取り戻せない。22から3年修行して25歳。そこからゼロから始まる勉強についていけること無理ではないかと思っています。その上に現住職が死んでしまってはどう足掻こうが住職になるしかない。 法科大学院へ親を捨て、家を捨て覚悟を決めて入ることが1番なような気もしますが罪悪感で、そのように考えると死にたいです (学費は奨学金等でギリギリ賄えそうです)
私は仕事のサボり癖が抜けず長い間悩んでいます。そのため様々な方に相談させていただきいろいろなアドバイスをいただきました。結局は問題はあまり解決していませんが、こんな相談を聞いていただいた方皆に感謝しています。 さて、この悩みを一度だけお坊さんに相談させていただいたことがあります。妻が昔、評判のよいある高名な僧侶に相談をしたことがあり、その伝手で私もお話を聞いていただけることになりました。 ただし、すでにかなりご高齢であったため、そのお寺に連絡した時点では残念なことにその僧侶の方はお隠れになられていて、跡を継いだ和尚様がいらっしゃいましたので、その御方にお話を聞いていただけることになったのです。 そのこと自体は大変有り難く、またその和尚様が比較的若いとはいえ不満を覚えたわけでもないのですが、しかし、やはりモヤモヤとするものが残ってしまったのです。 はっきり言って、20年近い間に多くの人に相談しておいて未だに解決しないものは、誰に相談しようがどんないい方法だろうが到底変わらないだろうことは感じつつあります。それでも、人生経験が豊富な方や、長年多くの人の悩みに向き合って来た方であれば何かあるのではないか、という考えが頭を離れません。 自分は有能な人や名声のある人に弱いのはわかっていて、それだけでは必ずしも意味はない、と言葉では頭に入れたことがあるものの、本当の意味では身についておらず、すごい人についていきたい、という願望が抜けません。 当時はありませんでしたが、このウェブサイトではたくさんの僧侶の方が様々な悩みにご回答されていて有り難く思います。私自身は仏教の業界にはまったく疎いのでどなたが高名か、などといったことはわかりませんが、しかし仮に評判のよい高名な僧侶の方がいたとして、そのような御方に相談することは意味があることと思えますでしょうか?
私は難病や障害がありあまり長く生きられないのですが最後に自分が何をしたいのか考えた時《僧侶になること》でした 近くのお寺や修行をさせて頂ける場所を探したのですが難病なので受け入れが難しくお断りされ、ある時、曹洞宗の住職の資格を持つ病院の先生と出逢い私の気持ちを伝えると 「こんなに大変な病気で弔いなどの志があるなら修行などしなくても十分です」 とのアドバイスを頂き、数年前から完全無料にて生活保護者さん、全国の動物を喪った方から依頼を受けて葬儀や法要をしています。(上記の先生から指導を受けて教えてもらったりしています) 活動資金は市から障害者手当てを毎月三千円頂けるので、それでやり繰りし御遺族様からは1円も受け取りませんが修行もしておらず得度も受けておりません… 私の活動は法的に違法になるのでしょうか? また仏様や修行や得度をきちんと受けられた方から見れば罰当たりに該当すると思われますか? 御教示頂けると助かります。
我が家の菩提寺のお坊さんのことについて相談したと思います。 尼さんで、嫁ぎ先の普通の家庭(サラリーマン家庭)に住んでいらっしゃいます。 お勤めの時にお寺へいらっしゃるようです。(お寺は先代がお一人で住まわれていらっしゃいます) 年齢(70歳前後)を理由に2~3年前よりお彼岸廻りもお盆廻りもされなくなりました。 私は昨年、息子と義父を見送りました。 枕勤めもお通夜も、遺族でと言われ、葬儀のみ来ていただきました。 葬儀の後、初七日含め49日までのお勤めをまとめてして頂きました。 息子は49日と初盆をまとめてしました。 まとめて、と言うのはお坊さんから言われてのことです。 義父は今年が初盆になりますので、日取りのお電話をしたところ「初盆されますか?」と言われ「出来ればしてあげたい」と伝えたところ「どうしても、と言われればやらない事も無い」と言うような反応でしたので無理なお願いするのも、と引き下がってしまいました。 最近は簡単にまとめて、とか、省略される方もいらっしゃると言うことは聞いたことがあります。しかしながら、お仏壇のある家庭に生まれ育ち、嫁いだ今の家庭もお仏壇があり、ずっとお世話させていただいてきました。熱心な信者とは言えませんがそれなりに信仰心はあるつもりでいます。 また、遺族が簡単に済ませたいと思うことの否定の気持ちはありませんが、遺族がきちんとしたいと思っているのにお寺さんの方から簡単に済ませる事への不満が少なからず沸いてしまいます。 息子のことは、出来ればひっそりと、と言う思いもあり私達が供養してあげればいいとも思っています。ただ、義父は「お葬式は派手にしてくれ」と生前言っていたこともあり、お寺への寄付なども他の檀家さんよりも多くしてきたりと言う人でしたのできちんとすることを望んでいるように思っています。 これからもお付き合いしていかなくてはなりませんし、不信感など持ちたくはありません。浄土真宗はお盆のお迎え(?)などはいらないとも聞いたことはありますが、その辺りのことも含めてご教授いただければ幸いです。
インターネットで仏教布教や衆生救済にご尽力されているお寺様も多くなってきている昨今、祈祷寺院は世間の目に触れやすくなっているかと思います。 インターネットでの僧侶の露出が増えた結果、従来の檀家制度では考えにくかった、「どのお坊様・お寺様と懇意にするか選択する」ことが可能となっています。 メリットがある一方で「自称・僧侶」という僧籍を持たない、本山に属さない等偽物の僧侶に騙される危険性も否定できません。 (中には、自ら「破戒僧」と主張する方もいらっしゃいますが。) また、友人等から「お寺に行こう」と誘われたら新興宗教団体だったという話もききます。 お寺様・僧侶様が、本物かどうかを確認する方法というのはあるのでしょうか? 神社であれば、神社庁に属しているかどうかである程度の判別はつくと思うのですが(単立は別として)、お寺にはそういった統括組織等はありますか? よろしくお願いいたします。
お坊さんを怒らせてしまいました。 とある悩みについてお坊さんにメールしました。 悩みやすい性格であるため、何度もメールをしては、アドバイスをしてくれていた方でした。 その方から先日、アドバイスとともに、「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」とメールがあったので、 私は「こちらこそ、これからも友達でお願いします」「いつもありがとうございます」と打ちました。 そしてしばらくして、新たな悩みについて相談したところ、 「なぜ1円も納めようとしないのか」というメールの返信が来ました。 「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」の後者を選んだ理由は、 納め方がよくわからなかったからなのですが、これについてかなり怒っており、見た瞬間震えてきてしまい、メールを削除し、 今現在学業で忙しいから今度でよろしいでしょうか、と返信しました。 すると、この期に及んで言い訳するのか、とメールが来ました。 その前は、あなたの悩みやすいその性格が全ての原因だ、的なことも書いてありました。 それから返信はしていません。 ただ、信頼していた方だけにショックですし、納めることが義務だとは思いませんでした。 若干トラウマになりそうです。 この体験とどのように向き合えばよいでしょうか。
こんばんは。 大変申し上げにくい質問をさせて頂きます。 私は仏教について関心があり(歴史や文化財、教義etc)、同世代の僧侶の方と語り合いたいと希望しております。 ご縁があればその方と交際したいとも思っておりますが、最近、僧侶・住職の元夫から激しいDVを受けて離婚したいうSNSやブログが数多く見られるようになりました。その女性達が多宗派の関係者に離婚の経緯を話しても、「寺ではよくある事。珍しい事ではない」と言われたそうです。 私自身も仏教系大学を卒業しており、教授や講師は僧侶や住職の方ばかりでしたが、講義終わりに質問に行っても、怒鳴るように返答されたり、挨拶をしても無視する教授陣も数多くいました。 僧侶や住職という方々には、上記の様な人間が多いのでしょうか。 ならば、出会いは諦めた方がいいでしょうか。
外面的なことですのでもしかしたら失礼かも知れないのですが、よろしければ教えてください。 浄土真宗のお坊さんは坊主頭じゃない人も多いのは知っています。 ただその他の宗派の人でも一律にスキンヘッドというわけじゃなくて、割と長めの丸刈りや単に短髪の人など多様性があるように感じます。 大学時代の友人が日蓮宗の寺の子で少し前に出家したのですが割と長髪です。修行に入る時は剃ったみたいですが。そのお父さまはスキンヘッドではない丸刈りです。 各宗派で戒律とか内部規定みたいなものが異なるんでしょうか?
先日父が亡くなりました。 それまで菩提寺がありませんでしたので、親戚と同じお寺にお願いしました。 葬式についてよくわからず、葬儀の当日、お経をよんで頂く直前に控え室で初七日までのお布施をお渡ししてしまい、「それはおかしい」と危うく返されそうになりました。 その事があったため、母はお坊さまに対してビクビクしています。 葬儀屋さんから「お布施は後日お渡しする以外にも当日葬儀の直前にお渡しすることも多いですよ」と聞き、そうしましたが…。 後から聞くと、お坊さまもお怒りになった訳ではなく「本来なら後日ゆっくり渡してくれて構わない」という意味でそう教えて下さったのだそうです。 しかし、その一件のせいで母は必要以上にお坊さまに怯えていて、どうしたものかと思っています(私自身はざっくばらんな方という印象です) 今後どうしたら、母はお坊さまと良い関係が築けるでしょうか? やはり直接おたずねするのが一番でしょうか? わからない事が多く、周りに聞ける人がおらず、正解もないようなので悩んでしまいます。 それから、よくわからず父の法名に院号をつけなかった為、「以前亡くなった親戚に比べ文字数が少なく見劣りする」と母が後悔しています。 一般的には院号を付ける方が多いですか?少ないですか? 今から院号を付けて頂くのは可能ですか? (ちなみに、我が家は浄土真宗です)
お世話になっております。 僧籍を持つ方との関係について相談します。 以前ご相談した方なのですが、授戒をためらっている理由の一つである方との関係です。その方はお寺のご住職の弟子で、僧籍をお持ちです。 その後、こちらでいただいたアドバイスを受けて少し距離を置いていました。お寺のご住職の法話は拝聴していました。 数カ月して必要があり、またそのお弟子さんの経営するお店にお世話になりました。 当時私はかなり苦しい状況にありました。その方に近況をお話したところ、特に悩み相談をしたつもりではなかったのですが、規定の時間をオーバーしてずっとその方の人生や人生観について語られました。 私の助けになればと思ってお話をされたのだと思いますが、正直、私には見当はずれなお話でしたし、何をお話しなさりたいのか、どうしてそういうお話になるのかもよくわかりませんでした。当時私は極めて多忙な時期で、なんとか時間を作って伺っていました。そのことはその方にもお話していました。一分一秒も惜しく、早く帰りたいと思いながら、でも途中でお話を遮るのは失礼だと思い、最後まで伺って、お礼を言って失礼しました。 距離を置いている間、僧籍を持っている方のことは敬わなければならないと戒にあるのだから、意見を素直に聞けない自分がわがままなのかもしれない、ご縁があったのだからすぐに捨てることは良くないと思い、今回改めて伺いました。しかしやはりその方のことを尊敬することができません。 ご住職は身体が丈夫ではないらしく、現在は仕事のほとんどをお弟子さんにさせているそうです。私たちとも直接会うことはなく、もちろん私もこれまで直接お話したことはありません。ただ、ご住職の法話から、こちらの状況は伝わっているのかなと少し推測する程度です。 お話したお弟子さんは後継者にはならないと思いますが、ほかのお弟子さんのお話も少し疑問に思うところがあり(上の、「受け入れられないのはあなたがわがままだからだ」ということはほかのお弟子さんから言われました)、今後、そのお寺とかかわって良いのか迷っています。 ご住職がおられる間はずっと法話を拝聴したいと思いますが、ほかのお弟子さんのことは心から尊敬する気持ちがわきません。このような考えは、戒に背いているのでしょうか。
長文を失礼いたします。 私の母が亡くなった折、私の父が私の母の永代供養のお願いのためにお寺へ出向いた折、私からいくつか住職に質問をいたしました。 「私、葬儀社の方にかなりお世話になりまして、で、その方たちは亡くなった方に対して一礼を欠かさず、敬意を尽くしているようにみられました。 私はお経の意味などはわかりませんが、この一連の(お経をあげる式の)動作中に、何かそうした「敬意を表す」ような行動は含まれるのでしょうか」 といった内容のものです。その住職の言動などに、どこか投げやりっぽい感じを受けましたもので。 住職の回答ですが、端的に「お経をあげることがこうした敬意になります」というものでしたが、なんとなく私は納得できませんでした。 続けてあげていただいたお経の意味をおたずねして、それについても説明していただきました。 「納得いただけましたか」という問いに対して、私は「あとは個人個人のとらえ方になってくると思います」みたいなことを言ったと思います。 その直後にご住職が激高しまして・・・。 「お前、俺のあげるお経より葬儀社の人間のほうが礼を尽くしてるっていうのか、そうなら全部葬儀社の人間に供養してもらえ!」 「俺の方が(葬儀社より)上にきまってるだろ!」 「こっちは商売でやってるんじゃないんだ!お前がそんな態度なら金は返す、そのかわりこの戒名は返してもらう」 「●●(父の名前)とのご縁もあって、特別に永代供養という形をとったが、こんな態度をとられるとは思わなかった」 私も「それは違う」「誤解だ」と色々言いましたが、聞き入れようとはされなかったように見受けられます。 最終的には「お前の言うとおり誠意なんてのは個人個人のとらえ方だろうから、それならお前が納得する寺を探せ!」と怒鳴った後、住職は席を立って退席されてしまいました。 私自身「お経なんて何の役に立つのか」といった気持ちがありましたし、そうした気持ちを見透かされていたのかもしれません。 それにこうした質問は「場」にそぐわないものでしょうし、私のような気持ちを持つ人と接する場合、かなり不愉快であっただろうとも思います。 しかし、あそこまで面罵されるとは思いませんで・・・。 二人で平謝りしたことでとりなしを得ましたが、個人的には今後の事も考えています。ほかの方のどんな見解でも聞きたいです。よろしくお願いいたします。
死後の世界はわからないものだとこちらでも他質問でいくつか拝読いたしました。 現代では亡き親族の供養の仕方は様々かと思います。いろんな考え方があって当たり前だと思うのに、いざ自分のことになると気持ちがついていきません。 私は名家出身とかでは全くないですが、両親はあるお寺の檀家として必要だと思うことはやってきておりました。父は亡くなっております。 私自身、それが普通だと思って生きてきまして、嫁いだら私の実家のお墓に入れなくても、宗派は違えども、嫁ぎ先のお墓・御先祖を大切にし、供養や法要等やるものだと思っていました。 しかし、主人の実家では檀家などの概念がありません。そのような考えがない方も現代にはいらっしゃると分かってはいます。 こちらでも、葬儀は必要なのか、法要は必要なのか、お墓は必要なのか、、、などと、類似の質問はあるかと思います。 ただ、義祖父の亡き後、葬儀はお坊さん宅配便…法要は最低限…。なんだか寂しいような、理解できない気持ちになってしまいました。 ですが、そのときに来ていただいた和尚さまには私としては感謝しかありません。 私自身、正直仏教について詳しく存じている訳では全くありませんのでこのような質問をさせていただくこともどうかとは思うところもあります。 ただ、気持ちの置き所をどうしたら良いのかわかりません。厳しいお言葉でも構いません。何かお示しいただけたら幸いと思い、質問をさせていただいました。よろしくお願いいたします。
こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……
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