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この夢はどう解釈するべきですか

回答数回答 1
有り難し有り難し 19

先日、いとこが生まれました。
私の母の弟さん、私からすれば叔父さまのお子様です。
それ自体はとても喜ばしいことです。
でも、どうも調子が思わしくないそうで、母子ともにずっと入院したままでした。

その折、変な夢を見ました。
私の母には不思議な力があって、もともと母方がそういった家系だったので夢見もさることながら、人の寿命をあて、霊視をすることができる人なのです。
夢の中で、その母と私のもとに、叔父さまが相談にやってくるというものでした。
やってきた叔父さまの足跡代わりに、ころころと拳ほどの大きさのどんぐりがくるくると現れてくるのです。
(見た目はどんぐりを大きくした形でした。なのでどんぐりと思ったのでしょう)

夢の中で叔父さまが「娘と嫁の調子が良くない」という話をするのです。
それをぼんやり聞きながら、何故か叔父さまの家の寝室の部屋隅に、見えているそのどんぐりが現れるのが見えました。
相談を受けながら、夢の中で母が「"おぐの実"が出てる!危ない!急いでお寺か神社へ!」と慌てていました。
言われた”おぐの実”は、どんぐりのことのようでした。

目が覚めたあとそれを母に伝え、母から叔父さまへ伝えてもらいました。
その後退院した奥様とお子様とを連れ、近くの神社までお参りに言ったそうですが、そこでお祓いをしてくれた神主さんが「親へいし(斃死)子へいし(斃死)に罹っていた。斃死祓いをしておく」と言って念入りにお祓いをして、お守りをくれたそうです。

岡山では「親へいし子へいし」という概念病(霊的なささわり)があるのですが、この夢はそれを暗示していたのでしょうか?
どうしても夢の中に出てきた「おぐの実」が分かりません。
母方の家の夢解きでは、夢にどんぐりが出てくることが危険(人死にに関わる)の現れなのだそうです。

私が今まで見てきた夢視は「亡くなった人からの頼み事」ぐらいでした。
(水がないから喉が渇く、花が供えられてなくて寂しい、などです。)
これは親類の危機を、たまたま私が教えてもらっただけなのでしょうか。
それとも夢視の力が強くなったのでしょうか。
そしてあの「おぐの実」はなんだったのでしょうか。
今でも時々不安になります。

この夢はどう解釈するべきなのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

夢は夢なりと心得るべし

現実でないものを相手にすることが迷いの始まりである。
いま目前を肉眼で見た時、そこに無いものを作りだしているとすればそれは想念である。
寝てみる夢は現実と多少関わりがあるとは言えど、所詮は夢。
今の眼の前の現実こそ、寝てみた夢にうつつを抜かしているうちに夢の如くに過ぎてゆく。
そうして年をとっていくよりは、今を懸命に生きるほうが良いです。
想像の世界、想念の世界に重きを置き過ぎていると感じませんか。
本当の現実は、あなたが想念に旅立っている時にも目の前に流れている川です。その川は、一度流れたらもう取り返しがつかない真実不虚の一大事実です。
寝ぼけてはいけない。
目を覚まされた方が良いでしょう。夢の出来事に意味づけなど百人いれば百通りの解釈。
事実は一つ。
解釈は無限。
事実は現実。
解釈は想像。
事実は悟り。
想像は迷い。
あなたが生きているのは事実。
あまり思いの世界に旅立たない方が不安が消え去り、実りある人生を送れると思います。
不安は想念の世界から引き起こされている訳ですから。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
普段意味のない夢しか見ないので、不意に意味の通る夢を見ると困ります。
いつも通り気にしないようにします。
ありがとうございます!

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