今まで何をしていたのか…これからどう生きていけば良いですか
今朝、目覚めてすぐに、
「私は今まで何をして生きてきたのだろう」
と頭を過り焦燥感に襲われました。
こちらに最初に相談させて頂いた時に、今年心折れる事が続きどうすればいいのかとネット内を彷徨う内に、斉藤一人さんや小林正観さん、ホ・オポノポノ等々を知り、そこから派生して、心理カウンセリングやスピリチュアル系の記事を読むようになった事をお伝えしました。
それらに何度も頼りたくなったのですが、完全には信用出来ず、入り込まずに無料メルマガを読むに留まっています。
それらは総じて、「潜在意識が自分の世界を創っている」というもので、その潜在意識を書き換えれば、自分の望む人生を創っていくことが出来るというのです。
ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」という著書が一番の大元なのでしょうか、分かりませんが…
今の自分について言うと、家があり主人が居てお互いに仕事を持ちお金も多少はあり、生きていくには充分に足りている生活をしています。
ただ子供が居ないことについては、長い間、寂しさを消す事が出来ませんでしたが、やっとここ数年で諦めが付いた処です。
子供が居ない分、両親に対して時間やお金を使って喜んでもらえる事が自分の喜びでした。
特に、仲の良かった父とは一緒に居られるだけで楽しく幸せでした。
その父は他界し、母だけとなった今、それまでと同様、母に喜んでもらえる事を考えたり行動したりすることに幸せを感じています。
しかし、そのような幸せとは別に、物質的環境的には事足りているのに、何故か心が満たされません。
特に、スピリチュアル系ジプシーになってからは強く感じるようになってしまい、本末転倒です。
2回ほど、こちらで相談させて頂いた事により、苦悩からは解放されつつあります。
お蔭様で、姑の件は心を落ち着かせることが出来、感謝に堪えません。
以前から薄々感じてはいたのですが、人生を振り返ったとき、自分自身何を残してきたのか何をしてきたのか、という事が見えず愕然となります。
仏教では、「相対の幸福」に対する「絶対の幸福」が「真の幸福」である、というのだそうですが、「絶対の幸福」とは何か、またそれをを得るにはどうすればいいのかご指南頂けますでしょうか。
心の持ちようであり、自分は感謝と幸福に包まれている、というのは頭では理解出来るのですが、正体のない何かが拭えず困惑しています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
安心して迷う
仏教における「絶対の幸福」「真の幸福」なるものは「涅槃」や「解脱」や「正覚(悟り)」などと言われるものでありましょう。
それらがどういう状態なのかは言葉を超えた世界ですので本来的には言語表現はできません。しかしそれではどうにもわからないので各宗派・各僧侶のこれまでの表現・体現の歩みがあるわけです。
さて、『教えて、坊さん!「さとり」ってなんですか』小出遥子(角川書店)という本があります。
この本は小出さんという32歳の仏教女子が各宗派の凄いお坊さんにストレートに「さとりとは何か」と尋ねあるいたインタビュー本です。
その中で各宗派のお坊さんはこの言葉にならない境地を言葉で次のように表現しました。
・「つながり」を楽しんで生きること
・夢であると気づいた上で夢を生きること
・「いま」という安らぎの中に生きること
・自分をまるごと受けいれて生きること
・死では終わらない物語を生きること
・「ほんとうのいのち」に従って生きること
どうでしょうか。それぞれに大変味わい深いものであると思います。
あなたも私たちもやはり納得したいのです。何かを掴みたいのです。これだという確信が欲しいのです。認められたいのです。
しかしそれらは必ず破り去られるもの、移ろい変わるものなのです。
今・ここを離れたどこかに理想郷のような何かがあるのではないかという夢から覚める。何かを掴もうともがいて心許ない何かを握りしめていたのが手放される。
そこにある境地が「さとり」であり「幸福」なのでしょう。「境地」というと何だか神秘的なものや特別なものを期待しますが、けしてそうではないことは上記のお坊さんが他の表現から伝わってくることと思います。
上記には残念ながら真宗大谷派のお坊さん並びにその表現は含まれていないのですが、ここであえて真宗大谷派的な表現を私個人なりにするならば
・安心して迷える道を生きる
ということがしっくりきます。真宗大谷派の法話ではよく出てくるフレーズです。
迷わないためにもがきつづけている私たちが迷いに還っていく、私をそのような道に立たせてくれるのが「南無阿弥陀仏」というお念仏です。言語表現できない仏様の悟りが言葉になってまで私に届いたのがお念仏です。念仏申し迷いながら歩んでいくのです。
もちろん念仏以外にも道はあるでしょう。それはあなた自身が証するものです。
心の満足とは
たくさんの本やネット等で、様々な情報を得られたようですね。
スピリチュアル系は、ほとんど共通しているような内容ですから、ある程度分かると、みんな同じような事を言っていると気が付きます。だから、なかなか満足のいくものには出会えません。
まして、ご家族も安定し生活も苦しくない状況であれば、尚更、さらに満足をするものはハードルが高いでしょうね。
大抵は、現実的に苦しいからこそ些細な事でも幸せや感じ、経済に苦しんでいるから収入を得る喜ぶを感じます。病になっているから健康の有難さを感じます。ただ、心の満足を得るには、他人から「ありがとう」と言われることで満足ができると思うのです。
いくら精神世界でも、信仰の世界でも、やはり自分だけの満足では、いつかは飽きてしまいます。仏教には「菩薩:ぼさつ」という段階がありますが、ただ菩薩さまに祈ることではなく、あなた自身が菩薩としての働きをしなさいということでもあります。それは、自らも修行(日常的な良き行い)しながら、他人を救う(親切や、優しい言葉掛けなど)ことです。
他人から感謝の言葉を頂くことで、しあわせになりたいさんの目的は達成されると思います。
そんな風に思いました。
質問者からのお礼
お礼コメントが遅くなりました事をお詫び申し上げます。
鈴木様
お答えくださりありがとうございました。
分かり易くお教えくださり感謝申し上げます。
今の状況で更に満足を得ようとするのはハードルが高い…
そうですよね、既に恵まれているし分かってもいるのに、「虚しい」とか「満たされない」と思うのは、贅沢過ぎますね。
それは、感謝の足りない傲慢さからくるものなるのでしょうか…
酷いパワハラを受けたことによって、心のバランスが崩しました。
また、最愛の父が癌と闘っていた時期と、姑と同居した時期も重なっていたので、辛い10年余りを過ごしたのですが、それらが原因で自分を見失った、というのは言い訳でしょうか…
そんな中でも、父の事に関しては母と共に心寄せ合ってきたつもりです。
自分本位で生きてきたつもりはなかったのですが、現状をみると、愛を以て接してきたのは
両親だけだったかも知れません。
なので、いつの間にか、それ以外の周りの人を思い遣る心を失っていたのかも…と思い起こしました。
人から感謝される事、という事を、自然に出来るような人間に成長したいと思います。
それは「無意識」で出来る事が本物だと思うので、今の私にとっては難しい事なのかも切れません。
でも、そうする事を意識しながら、謙虚に心綺麗な生き方を心掛けていきたいと思います。
ありがとうございました。
吉武様
お答えくださりありがとうございました。
「悟り」というと余りにも高度過ぎて難しいですが、教えてくださった本も手に取ってみようと思います。
箇条書きで纏めてくださった内容は、自分にも出来る事がある、と思わせてくださる事もあり、すぐにでも実践出来れば…、と思いました。
それらのお言葉には、気付かされる事が多々ありましたし、一日一日を丁寧に生きていかなければ…、という想いを新たにしました。
そして、「自分をまるごと受けいれて生きること」、という事が今の自分には欠けていた事に気付かせて頂きました。
今までになかった感情に囚われて、情報に混乱し、自分で困惑と動揺の中に追い詰めてしまいましたが、少し立ち止まって落ち着いて自分を見詰め直したいと思います。
ただ…
【今・ここを離れたどこかに理想郷のような何かがあるのではないかという夢から覚める。
何かを掴もうともがいて心許ない何かを握りしめていたのが手放される。】
という事は、求めているものは、心に根付かないものなのでしょうか…
求めているものは、「安心・安らぎ・平安」で、心に陰のない状態で居られることに尽きるのですが…
「南無阿弥陀仏」というお念仏は、私も唱えます。
亡き父に寄り添いたくて…
そして、「安心」を得たくて…
これからも祈りたいと思います。
ありがとうございました。