人は自分自身の人生しか生きられない
親子でも親は子を100%理解出来ないし逆に子は親を100%理解出来ない。
夫婦間や他人なら尚更理解するのは難しくなる。
人は1人では生きられない。多くの人達の助けがあり、それは気づきもしないところでも助けられています。これらは事実だと思いますがやはり自分以外の人間を事を思いやるにしても心を理解するのは難しいことですよね。
助け合うが行き着くのは自分自身であり自身の人生を歩むしかない。
私はそういう事を感じてはいましたが長年目を伏せて生きてきました。
両親に助けられ1番絆が深いのは母です。
しかし母も67歳で病気持ちです。
1番の私の理解者の余命もそんなに長くはないことに目を向けた時、私は母が亡くなったら孤独になると感じました。
しかし最初に書きました人は自分自身の人生を歩むことしか出来ない。全ての人間、1人1人が違う心である。
その事を私自身受け入れたいのです。
今まで母に助けられすぎて自分は母とは心が繋がり、一生を共にするような錯覚がありました。
でもそれはやはり錯覚です。
50億人間がいるなら50億の心があり50億の孤独がある。
私の考えは間違っているのかどうか、皆様のアドバイスをよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
だからこそ、私は、いろんな人と出遇っていきたい。
あなたの言う通りです。
ただね、みんな違う人間で、100%理解出来なくても、理解しようと 分かり合おうと、相手を気にかけ、寄り添うことは出来ます。
協力や、支え合いは、そういう 相手を思いやる気持ちから生まれます。
孤独も時には必要だし、大事な時間かも知れません。冷静に、自分を振り返る。我が身を知る。人生には、そんな時間も必要です。
いろんな関係性があっていいし、いろんな価値観があって当たり前。
それを、互いに認め合えるから、生きづらさも、また軽減されるのでしょうね。
あなたの考えは、その通りだと思います。
だからこそ、私は、いろんな人と出遇っていきたいとも思うのですよ(﹡´◡`﹡ )
仏さまのいのちの下での人生。全ての命は仏さまに抱かれて。
こんばんは。亀山純史と申します。
『仏説無量寿経』には「独生独死独去独来(独り生まれ独り死し、独り去り独り来る)」と説かれています。生まれるのもひとり、死ぬ時もひとりなのです。ですから、私の人生は私自身しか歩めないものなのです。そして、私たちは他人のことを完全に理解することは難しいことなのでしょう。それは、私たちは常に主観的な生き物だからです。ネフローゼ症候群で29歳という若さで早世した天才将棋棋士村山聖九段は、「人間は常に主観的で、自分自身の痛みでしか他人の痛みを理解できません。ですから体に障害があったり重い病気の人の気持ちを真に理解することはありません。」という言葉を残しています。確かに、私たちはそれが親子の関係であっても、100%理解してあげることは難しいことであると思います。
ところで、私たちは、自分自身のことを100%理解していると言えるでしょうか。多くの人は、自分のことは自分がよくわかっている、と思っています。しかし、仏さまの教えに触れれば触れるほどに、私自身がちっとも自分のことを理解していなかったことに気づかされるのです。まさに、人間は常に主観的である、ということは、自分自身の理解、評価にも当てはまることなのです。「自分はあんな人間じゃない」とか、「自分はダメな人間だ」など、すべての自己評価は、常に主観的であり、仏さまの智恵と慈悲の世界から見たら、どれも真実ではない、ということを、仏さまは教えてくださるのです。そうすれば、今までは他人のことを少しは理解していたと思っていても、実は自分の都合でしか見ていなかった、自分中心の物差しでしか相手を見ていなかった、ということに気づかされることでしょう。
私自身、他人を100%理解することが出来なくても、そして一人ひとりが違う心を持っていても、仏さまの世界に立って、自分のことそして他人のことを理解すれば、そこに、自他ともに仏さまのいのちの下での人生であることに目覚めることでしょう。つまり、自分自身の人生は、独り生まれ、独り死ぬものであっても、決して孤独ではなく、すべての命は仏さまのいのちに抱かれたものであるのです。
質問者からのお礼
中田様、亀山様、ご回答ありがとうございました。私の思っていたことは的外れではないと思うことが出来ました。お二人がおっしゃるように人生は自分1人である、しかし他者との理解をし合って生きていくことは非常に大切だと再認識しました。
これからはしっかりと自分を生き、他者を思いやることを大事にしていきたいと思います。
本当にありがとうございました。