綺麗事と現実のギャップについて
こんにちは。
質問を見てくださってありがとうございます。
「自分らしく生きよう」
「自分に自信を持とう」
「他人に何を言われても気にせず自分の道を行こう」
「そうすれば幸せになれる」
…そんな言葉を、色々な本の中でよく見かけます。
しかし、現実は厳しいです。
私は学生時代、見た目がよくないことでいじめられてきました。
何もしていないのに殴られたり、暴言を吐かれたりしました。
勉強はそこそこできました。でも私は間違いなく不幸でした。
テレビを見ていても、見た目が良くない人に対しては何をしても良いという暗黙の雰囲気を感じます。
社会に出てからは、仕事も自分のできる範囲で精一杯頑張りました。
しかし周りにもっとすごい人がいると、「お前はあいつに比べてどうしてそんなにできないんだ」という評価をされます。
評価が下がると、給料も下がります。周りからもヒソヒソされます。
それは不幸ではないのでしょうか。
だらだらと書いてしまって申し訳ありません。
私が聞きたいのは、「どんなに綺麗事を言っても、結局現実を見ると「自分らしく」なんて生きられない。理不尽なことばかり。自分の中で精一杯やって、自分なりに頑張っていたとしても、社会では他者からの評価が悪ければそれで終わり。そんな現実とどう向き合っていけばいいのか。」
ということです。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「空」なるものは「拠り所」とならない
こんにちは。
「綺麗事」の例として挙げていただいたいただいた言葉は、その言葉自体というよりも、どうしてそんなことが言えるのか?というところに意味がある様に思います。優しげな言葉で現実の問題をごまかすだけなら確かに「綺麗事」で終わってしまいますね。
さて、60㎝の棒と80㎝の棒はどちらが長いでしょうか?
この問い自体の答えはもちろん80㎝の棒ですが、100㎝の棒が出てきたのなら答えは変わってしまうのでこの問い自体に大した意味はありません。これを「空(くう)」といいます。
「空」とは「空っぽ」「実体がない」という様な意味ですが、「空」は「虚無」(何もない)ではないため「空」からも実際の影響を私たちは受けます。この例の問いの中で生じている影響として考えられるものは「より長い方が優れている」という価値観です。
この価値観自体も「空」ですが、やはり人は「どちらが長いか短いか」と比較して考えてしまうます。
しかしその価値観が「空」であるということを知っているかどうかは無意味(=綺麗事)ではないと私は思います。
「容姿が優れているかどうか」「仕事ができるかどうか」
という価値観も「空」です。しかし自分がそのことに気づいても世界中の人がそうではない限りその価値観をベースに比較され評価されることは避けられません。
それでも自分がその「評価」を「拠り所」(私が生きる上で中心に据える支えとなるもの)とすべきものではないと知っているならば見え方・考え方・対処の仕方は変わってくるものです。
「お金」という概念も「空」です。「国家」という概念も「空」です。ただの紙切れやただの土地に実体のない「概念」という「虚構」が共有されて成り立っています。しかし「成り立っている」ということは現実の影響があるということです。
その中において自分は何を「拠り所」として生きるのかです。
自分が今60㎝の棒だとしたら、80㎝の棒と比べて苦しんで20㎝の棒と比べて喜んで生きるのか、去年59㎝の棒だった自分と比べて考えていくのか、それとも今の60㎝である棒の色や模様や質感を楽しんでいくのか…色々考えられます。
「長さ」という「価値観」は空であるが、その価値観ベースで語られることが一般的であるならば影響は避けられません。
その中においてあなたの「拠り所」となるものを見つけましょう。
だって綺麗事ですし…
「自分らしく生きよう」
→俺が俺がー、私が私がーという自分執着を手放しましょう。
「自分に自信を持とう」
→自分執着を手放し、善い行いを道しるべとしよう。
「他人に何を言われても気にせず自分の道を行こう」
→世俗の救われない言葉を百も千も聞くより、本当に救われる仏の言葉を1つ聞いた方がずっといいです。
「そうすれば幸せになれる」
→評価されたり、お金いっぱいもらえたり、チヤホヤされたり、そんな幸せは不幸せと表裏一体です。仏道は不幸せを幸せに転じるのではなく、不幸せからも幸せからも離れる中道の道です。
これが2500年前の人、お釈迦さまの考え方です。
「自分らしく生きよう」
「自分に自信を持とう」
「他人に何を言われても気にせず自分の道を行こう」
「そうすれば幸せになれる」
…そんな言葉は高度経済成長期にもてはやされた価値観です。それこそテレビドラマで広まった綺麗事だと思いますよ。
心が目指す方向を変えるよう、読む物のタイプをガラッと変えてみてはいかがですか?
あとそもそも論な話、仕事に夢や希望を求めてキラキラ働けというのがバブリーな綺麗事なんです。有史以来、洋の東西を問わず、我慢して仕事してお金稼いで、余暇に生きがいを見出すのが健全な社会です。正直、現代人の職務意識は病気です。世界中の人間全員を織田信長やナポレオンに育てないと気が済まないようなことを真顔でやっています。
まぁこれは仏教の話ではありませんけどね。でもお釈迦さまも「仕事(生産活動)なんか苦の原因の連続です。辞めて出家修行しちゃいましょう。」と言っていますし。
世の中にはもっと他に学ぶべきこと、出会うべき人々、繋がるべき場所があります。
追記
ご返信ありがとうございます。
単純に仏教の考え方を学んでみませんか?hasunohaやお坊さんの本を読んで、お寺の行事に参加して、仏教の考え方やお寺コミュニティの人間関係に親しんでみていただきたいということです。勧誘っぽく書きたくなかったのでちょっとボカしましたf^_^;
質問者からのお礼
とてもお早いご回答を誠にありがとうございます。
世の中に蔓延している価値観は変えられないけれど、自分の拠り所にする価値観は変えられる。
…まだ自分の言葉に落とし込むには時間がかかりそうですが、頑張ってみます。
確かに、下を見て安心する人生も、上を見て絶望する人生も、とても意味のないもののように思えます。
自分が一番良いと思える価値観を探っていきたいと思います。
また、大慈様の回答も、とてもざっくりしていて心に響きました。
もし宜しければ、「読むもののタイプをガラッと変える」「もっと学ぶべきことがある」ということについて、もう少し具体的に詳しくお聞きしてみたいです。
(追記に関して)
なるほど、ありがとうございます。
実際このサイトで仏教の考え方について触れてみて、とても共感できる物が多く、また色々な面で救われました。
本を買ってみるなどして、学んでいこうと思います。
本当にありがとうございました。具体的に示してくださって感謝です。