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進路について

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センター試験を終えて、分が悪い京都大学(落ちれば北海道大学)を受験するか、手堅く大阪大学を受験するかで迷っています。
この選択で今後数十年の人生が変わることになるので、自分の中で答えを出すことがこわいです。ここ1週間ずっと自分の人生の目標とか幸せとはなんなのか、そしてそれらと進学先がどう関係していくのか、考えています。
お坊さんはこのようなときどのように考えて、決断をするのですか?何を1番優先する事として判断するのですか?
よければ、教えていただきたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

学びの原動力

はじめまして。
お坊さんで女子プロレスラー、カウンセラー見習いの雫有希です。
学歴は県内進学校~上智大学短期大学部~慶応義塾大学です。

しかし女子プロレスのある大御所に言われたんですよ。
「あんた慶應なの?なんでプロレス界に来たの?バカなんじゃないの?」。
「教育学なんて数学みたいな話するなよ!」。

それよりも何よりも合コンに行ってもどこに行ってもモテやしない(笑)
学歴よりも化粧がうまくなったり痩せたり、かわいい服買ったりしたほうが幸せつかめるんじゃないかって真剣に悩んだ時もありました。(今も悩んでます・・・・・)

学歴で得したことはありません。もちろん損もありませんでした。
何が言いたいかって「私上智です」「私慶応です」って言ったとこで幸せの引換券ではないんです。
学歴が保証してくれるほど甘くない、でも言い方を変えれば、学歴がどうであろうと歩む道はあると私は思います。

京都大学を出たからたまさんはすごい。
ではなく
たまさんはこんなところがあるから素敵、すばらしいな!
って思ってもらったほうが、大事な人間関係を作れたり、お仕事をしていったほうがたまさんにとってうれしいと思いませんか?
それを踏まえたうえで
どうしても京都大学にチャレンジしたいと思うなら、京大へ、現役で大学に入り早く学問をおさめたいと思うなら北海道大学や大阪大学へ受験をしたらいかがでしょうか?

ちなみに、私短大生相手にキャリアプランニングという様々なOGさんの自身が歩んだキャリアについてお話しする授業したときに言ったんですよ。
「私は多種多様な生き方を見てきたけど多種多様な死に方も見てきた。つまりどんなキャリアを歩んでも全員いつか死という同じ人生のキャリアの最期を迎えます。墓にも位牌にも刻むことのない最終学歴やキャリアになんで固執するのだろう?なんのために学歴やキャリアを手に入れたいかを考えませんか?」と。
その瞬間、おしゃべりしていたギャルも、スマホ見ていたねーちゃんもみんな私のことをはっとした顔してみてました。

もうお亡くなりになった私の恩師のシスターが「人の役に立ちたいと思ったとき、知識が必要になって、だから勉強しなくてはならない」と言う姿勢を自分の命を懸けて私たち生徒に見せてくださったことが私の学びの原動力です。

どうか良い結果を願っております。

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有り難し
おきもち

占い師、タロット講師、心理カウンセラー、女子プロレスラーの顔を持つ浄土宗の尼僧です。 占い師としては約6000人ほどの方を鑑定してきました。 専門分野は占いに関わること全般です。 (占い師に言われて納得いかなかったこと、怖かったことを再度紐解いてお伝えします。) また、不倫恋愛・復縁というちょっと訳アリの恋愛のアドバイスが得意です。 普通に考えたらだめに決まっている… 普通に考えたら反対されて当たり前… そんな世間は味方をしてくれないあなたの悩みをトコトン否定せずに伺います。 占いも可能です。 何でも相談してください。
現役占い師です。 オンライン個別相談にて占いも可能です。

大学はあまり関係ないと思います

大学でろくに学びもせずに過ごしていたら4年目で急にスイッチが入った丹下です。
どこの大学にいったかとかは全然関係ありませんよ。
そこで何を学んだか、ですよ。
学ぶ主体はあなた。
学びは何処にでもある。
学んだことを形にできるかどうか。
大学行かなくても立派な人はうじゃうじゃいる。
一歩踏み出すことを最優先しましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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