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髪を切り過ぎました

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有り難し有り難し 26

髪を切り過ぎてしまいました。

後悔しました本当にショックです。

初めて、ロングからショートにしたのですがもともと髪の毛の癖が強く、中途半端に跳ねていて小ダサい。しなやかな女性らしさも無い。

学校に行くだけならまだどんな髪型でも別にいいやで済むのですが、

来月に初めて東京に行き、好きな芸能人と会う予定だったのです。ツーショットも取れるとのことなので、写真も残ります。

こんなことなら勢いで髪を切るんじゃなかったと深く後悔しました。

同時に、最近季節の変わり目なのかもともと荒れている肌がもっと荒れ、酷く赤くなっています。
かゆみも伴います。

さらに季節の変わり目でずっと精神的にも体調的にも辛い時期が続いており、
もう踏んだり蹴ったり…というような気分でなにもやる気になれません。

側から見たらしょうもない落ち込みなのかもしれませんが、
もういろいろ閉鎖的な気分になってしまいました。

肌は今日学校を休んで病院に行ったのでまだ治る見込みはありますが、
しかし、明日も顔が赤いまま。さらに髪の毛のことを友達に言われたら耐えられる心がありません。
変と言われたりしないか…言われなくても人に干渉されること自体が苦痛です。

私は、どうやって今の気持ちを立て直しいい流れに持っていけばいいのかがわかりません。
教えていただきたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の停滞こそネガティブな心を生む。その心を✄カット。

まず内のお寺に来ていっそのこと丸坊主にいたしましょう。(嘘)
尼僧堂に連絡しておきますのでご実家のご両親に「いままでお世話になりました。」とお別れを。
経験上申し上げますが、人ってあまりこちらの容姿の変化についてさほど興味ありません。
あなたも現に自分の容姿のことばかり気にして、お友達のAさんの髪型や、Bさんの眉毛の位置やCさんのアゴのカタチやDさんのお肌のコンディションやEさんの鼻の穴の数など数えてもいないし気にもしていないでしょう。(2つだけどね)
容姿の変化はその髪型に合うファッションがあるはずです。
一つ変化すればそれに応じて他のことも変化させることでバランスも良くなります。
これは今までのキャラからの解放されるという自由さを手に入れたということでもあるのです。
容姿を気にしないための修行と思いましょう。
今、ご自身の背中や足の裏のことなど忘れていたはずです。
掴めばそこに引っかかる。
全身、百、千に分けられる体の部位やパーツ。
常日頃は忘れているのです。
ところが一つでも掴めばそれに捕らわれるのです。
有名な話ですが、むかし中国の武将が立派な髭を持っていました。
ある時、寝ている時はその髭を出しているのか?しまっているのかどっちなのか?と尋ねられてその武将はそれ以来髭が気になって気になって気になって気になって気になって…
どうでしょうか。
人は、さほど他人の容姿など気にしていないものです。
一念、一執、一著。
つかみ事があると、それに縛られる。
あなたはまさにその一念を握っている状態なのです。
まずはその自覚からです。
今日からあなたが気にするべきことは、
「髪を切り過ぎたこと」から
「気にしているわたし」です。
心のカーソル・ポインターがそちらに向かわないように心がけましょう。
心のカーソルが一点集中型ですと心の停滞になります。
それがネガティブな意識となるのです。
あなたの目は今、自分の髪の毛を見ていなかったでしょう。
世界はもっと広いのです。
いっそのことバッサリ切って視界を広げている自由な人たちも大勢います。
髪をカットされた以上、あなたはもう過去のあなたから離脱したのです。
離脱されたら新しいトコロを歩んでみるようにしてみましょう。
もうあなたのアドレスは変わったのです。
思考のアドレスから目前というアドレスを生きるようにいたしましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元さん、お言葉ありがとうございます。
なるほど、なるほどなぁと思いながら全文読ませていただきましたが、特に、
>髪をカットされた以上、あなたはもう過去のあなたから離脱したのです。

というお言葉に、ああもう自分は髪だけではなく、過去から切り離されたところに存在してるんだなと感じました。
そう感じられるまでは、「はやく髪伸びてくれ〜!」と思っていましたが、たしかに伸びれば前と同じ長さにはなりますが、今はそんなことを考えても仕方ないし、過去の自分から髪とともに離脱したのだから、今の自分ができる範囲でどう魅力ある自分になれるかを考えていったほうがいいな、と前向きになれました。

結果的に、自分に合うように考えて軽く髪型をいじってみてから学校にいくと、意外にも「いいね!」という声を頂けたので、ああこういうことか…と学びを実感しました。

優しくユーモラスに質問に答えてくださってありがとうございます。前向きに捉えていこうと思います。

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