死んでしまいたいとき
何度か質問に答えていただき、その度に頑張ろう生きていこうと思うのですがやっぱりダメなんです。何もかも嫌になってしまいました。
2度自殺に失敗し本当なら先月末に自殺しているつもりでしたが何故か生きてる自分がいます。
怖かったんです。でも生きてるのが嫌なんです。
死にたいと思うたび「大切に育ててくれた祖母に介護が必要となったとき手伝いたい」「母子家庭でギリギリの中育ててくれた母に恩返ししたい」と思いなんとか生きてるような感じです。
母は「貴方が幸せにしてるのが1番の恩返しだよ」と言ってくれました。幸せは「幸せになるものじゃなくてそこにある幸せを見つけること」ということだと思ってます。私の周りにはきっと幸せだらけです。ご飯が食べれること、寝るところがあること、働く場所があること。ありがたいことです。
でも何もかも嫌になって、どうやって生きていけばいいのかわかりません。自殺したいと言いながら本当は生きていたいんだと思います。
お付き合いしてくれている彼には幸せになってほしいです。でもずっと一緒にいたいというのは私のワガママなのかもしれません。
めちゃくちゃな文章でごめんなさい。
明日もまた生きていけるよう何か一言でもいただけたら、と思います。(私の煩悩欄も読んで参考にしてもらえると幸いです)
よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【追記あり】本当の願い
ご相談拝読しました。
「明日もまた生きていけるような一言」を持ち合わせていたら僧侶冥利に尽きるのですが、あいにくそのような魔法の言葉は持ち合わせてはいないのです。
それに私たちの日常というのは魔法で何とかなるような軽いものではありません。もっとずっしりと重いものです。
しかしまあ、それでも言葉を尽くすならば…
私たちの人生にこうでなければならないというものはないのです。頭で考えた「〇〇しなければならない」はすべて観念であり執着です。苦しみの元です。ですから
「生きなければならない」ということも「死んではいけない」ということも「死ななくてはならない」ということも「生きてはいけない」ということもないのです。
仏様はただ、あなたがあなたのあり方に気づき目覚めなさいとおっしゃります。
あなたはその自分をみつめ、「本当は生きていたい」との自分の願いに気づいたのですよね。それでも様々な観念や執着にその願いが覆われてしまうのですよね。
しかしどうでしょう?
本当に大事なのは、あなたの本当の願いと、苦しみの元である観念や執着と、どちらでしょうか?
頑張っても、頑張らなくても、ダメダメでも、全てが嫌になってもかまいません。ただ、あなたがあなたの本当の願いを見失いませんように。
【追記】
お返事ありがとうございます。嬉しいです。生きててくださりありがとうございます。本当に嬉しく思います。
どうか無理はなさらずに、頑張り過ぎずに。またお気持ちをお聞かせください。
あなたの場合は、あまり考え込まない方がいいと思いますよ。
どうやって生きていけばいいか分からないとありますが、例えば、
朝は仕事に間に合うように決めた時間に起きて、朝食を食べて、仕事して、お昼ご飯を食べて、午後の仕事をして、夕方に家に帰って食事を済ませて、お風呂に入って、彼と何気ない会話を楽しんで、布団に入って寝る。
このように生きてはどうですか?
特別なことは何もありませんよね。
何かをしないといけないとか、思い込まないようにして、できることをするだけですからね。
死んでしまったら、これらのこともできなくなりますからね。
瞬間ごとに新しい自分
瞬間ごとに新しい自分だと思いましょう。
過去の記憶データは受け継いでいるけれど、過去の痛みが今もあるとは限らない。
歩くときも、右足を動かした自分と、そのあとに左足を動かす自分とでも、すでに違う新しい自分です。
瞬間瞬間は、簡単な単純作業しかない。
ただ、それを積み重ねていけば、振り返ったら何年生きた、とかになるだけです。
瞬間瞬間の単純作業を穏やかにこなしましょう。
たとえば画面をクリックするときは、ただ手の筋肉を動かすという単純作業だけ。
その瞬間には、不幸はありません。
質問者からのお礼
お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
ありがとうございます。頑張ります。